重度脳性まひの息子を育てる母。ママ友からしかられ、涙がぽろぽろと。その日から息子を「かわいそう」と思う気持ちを手放した【体験談】
大阪府に住む畠山織恵さん(44歳)は、夫と24歳の長男、14歳の長女の4人家族です。長男、亮夏(りょうか)さんは生後9カ月で脳性まひと診断され、現在も車椅子で生活しています。脳性まひのために全身の筋肉に緊張があり、自分の意思とは関係なく体が動いてしまったり声を発声しづらかったりする状態。それでも亮夏さんはチャレンジをあきらめず、現在は織恵さんと一緒に⼀般社団法⼈HI FIVE 設⽴して社長となり、福祉や介護の学校などでの講師業や、SNSでの配信などを行っています。決して平たんな道のりではなかった亮夏さんの子育てについて、織恵さんに話を聞きました。全3回のインタビューの2回目です。
保育園で離れる時間ができて「かわいい」と思えるように
――生後9カ月で脳性まひと診断され、リハビリを開始した亮夏さん。2歳から保育園に通い始めることになり、それまでと生活はどんなふうに変わりましたか?
織恵さん(以下敬称略) 夜もなかなか寝ない、日中もぐずることが多い亮夏との生活は、いつも緊張の細い糸がピンと張っているようでした。自分の子なのに「かわいいな」って思うこともできなくて。あるとき「このままずっと亮夏と一緒に過ごしたら何をしてしまうかわからない」と思い、区役所に駆け込んで保育園に入れてもらえるようお願いしたんです。
それで亮夏は2歳を過ぎたころに保育園に入園しました。亮夏と離れる時間ができたことで、少しだけ自分の心に余裕ができたと思います。ゆっくりコーヒーを飲めるようになったとか、そんなささいなことです。でも「亮夏は今何をしてるのかな」と考えたり、お迎えしたときに「かわいいな」と思えるようになりました。
亮夏が保育園に通い始めてから、短時間のパートを始めたことも自分の中ではすごく大きな経験です。自分が母親以外の役割でだれかの役に立てること、自分のペースで動けることの喜びや、わずかでも自分の自由に使えるお金が稼げることが自信にもなりました。
――保育園での亮夏さんの様子はどうでしたか?
織恵 ずっと泣いていました。普通の子が1〜2週間で慣らし保育を終えるところを、亮夏は半年かかりました。何度も何度も、保育園から「泣いてお昼寝をしないから迎えにきてください」と電話をもらうこともとても多くて・・・。あるときは「昼寝なんかしなくても亮夏は死にません!」と電話口で叫んでしまったこともありました。加配の先生が1人ついて見てくれていて、なんとか半年くらいで保育園の生活に慣れることができました。
リハビリセンターの母子通園も続いていたので、週に3回は保育園、週に2回は通園、という形。少しずつ保育園の割合を増やしていきました。
息子を「かわいそう」と思う気持ちを手放した日
――織恵さんは「母親として完璧にしなければ」と考えていたそうです。
織恵 母親として自分が頑張らなくては、と思い込んでいましたが、保育園に入る少し前に、周囲の人をもっと頼っていいんだ、と気づいたきっかけがあります。
それは亮夏が1歳を過ぎたころのことでした。私が高熱で寝込んでしまい、義理の母に亮夏を3日ほど預かってもらったんです。義理の両親は自宅から徒歩5分ほどの距離に住んでいたのに、私はそれまで「自分がやらなければ」と、なかなか頼ることができずにいました。3日ほどして熱が下がってきたころ、義理の母から電話がかかってきて「織恵ちゃん、亮夏くんが笑ったよ!」と興奮した声で話してくれたんです。「脳性まひで、笑うことはない」と言われていた亮夏が笑った、との電話にびっくりして、すぐ迎えに行きました。
義理の両親の家からの帰り道、「私は1人で頑張りすぎてたんだな」と気づきました。もしかしたら、亮夏が笑わなかったのは、私が笑顔じゃなかったからかもしれない、とも。私が1人で抱え込むことで、彼のいろんな可能性を制限してしまっていたんじゃないか。彼の人生を豊かにするためにはいろんな人に出会うことが必要なんじゃないか。いろんな考えがぐるぐる回りました。
私は亮夏の親だけど、1回しか生きていない人生での経験や知恵で応援することしかできません。でも、夫やその両親、保育園の先生などいろんな価値観に触れてこそ、その中から彼が自分に合った選択をできるんじゃないかと、そのときに気づくことができました。それからは少しずつ、周囲の人たちの力を借りられるようになっていったと思います。
――著書『ピンヒールで車椅子を押す』の中で書かれている、保育園の運動会のエピソードが印象的です。
織恵 保育園の年長さんのとき、運動会のリレー競技に参加しました。亮夏は歩くことができないので、コースにマットを敷いてもらい、そのマットを端から端まで腕を使って進んで次のランナーの手にタッチできたら、次のランナーが走りだすルールでした。競技がスタートしてほかのクラスのランナーはコースを何周かする中で、亮夏はゆっくりマットの上を前進していました。みんなが応援してくれても、なかなか次のランナーがスタートできずにいる状況で、私は「みんなに申し訳ない」と口に出してしまいました。そうしたら隣にいたママ友に「亮夏があんなに頑張って走っているのに、申し訳ないなんて失礼やと思わんのか?!」としかられました。
彼女のひと言で、私が亮夏を信じられていなかったことに気がついて、涙がぽろぽろこぼれました。そしてそれからは、彼のことをかわいそうとか、周囲の人に申し訳ないとか、そんなふうに思う気持ちを手放そう、と決意することができたんです。
乗馬やパラグライダーにチャレンジした学生時代
――保育園を卒業してから、息子さんはどんな生活になりましたか?
織恵 保育園を卒業後は、地域の小学校に入学し、支援級と通常クラスを行き来して過ごしました。小学校卒業後は、支援学校の中等部に進学。高校は支援学校の高等部には進まず、一般高校の⾃⽴⽀援コースに入学しました。
幼いころの亮夏はずっと泣き虫だったんです。でも、小学校3年生くらいから泣くことが少しずつ減り、変わり始めました。全介助が必要な亮夏ですが、私は彼にやりたいことを見つけて、自分を好きになってほしい思いが強くありました。
だから小学校高学年のころから、亮夏の「やりたいこと」を一緒に探して、いろいろなチャレンジをしようと考えました。彼が「やってみたい」と言った乗馬やパラグライダー、一人旅など、周囲の手も借りながらチャレンジを重ねました。
一つ一つの経験を積み重ねて、強くなっていったんだと思います。私は、彼のチャレンジがもし失敗しても「やってよかった」と思ってほしかったので、そのためにどんな言葉をかけたらいいのかを考えながら応援し続けてきました。
亮夏自身は、高校2年生の修学旅行のときなんて10日くらい前から不安でたまらない様子でしたが、だんだん不安に思う期間が短くなり、最終的に高校3年生に一人旅をするときには「何にも不安じゃない」と言うまでになりました。
10歳年下の妹。お兄ちゃんが大好きだけど・・・
――亮夏さんには10歳差の妹がいます。
織恵 娘のつかさは、にぃにのことを「かっこいい人」と言っています(笑)。私がつかさの子育てで大事にしていたのは、自分自身のこともお兄ちゃんのことも好きでいてほしいということ。「お兄ちゃんはすごい人でかっこいいんだよ」と伝え、「あなた自身もとてもすてきだよ」と、伝え続けました。
つかさの小学校4年生の運動会を、私と車椅子の亮夏とで見に行ったときのこと。亮夏を見たクラスのお友だちは「おまえのにいちゃん、車椅子乗ってんの?」「障害があるの?」とざわっとした雰囲気になりました。それに対してつかさは「そうやねん!うちのにぃに社長やってんねんで、かっこいいやろ!」と笑顔で言ったんです。そうしたらまわりのお友だちも「そうか、社長か、すごいな」という空気に変わりました。そのときの彼女の誇らしい表情は忘れられません。
――お兄ちゃんのことが大好きなんですね。
織恵 はい。でも一方で、難しさを感じた出来事もありました。5年生くらいのときに一緒におふろに入っていたら、私のおなかにある帝王切開の傷を見て「これ何?」と聞くので「ここから亮夏もあなたも生まれてきたんだよ」と話しました。そうしたらしばらく黙ってから「ごめん」と言うんです。「私、自分も障害があればいいと思ってた。みんないつも亮夏ばっかりだから。私も障害があって生まれてきたら、みんなにかまってもらえたのかなって思ってた」、「ママが、おなかにこんなに傷をつけて産んでくれたのに、そんなふうに思ってごめん」って。
私は毎日毎日つかさに大好きだよ、と伝えて、スキンシップもたくさんしていたのに、それでもつかさはこんなに不安だったんだな、と知った出来事でした。彼女が言ってくれなければ、私はきっと気づかなかったと思います。障害児がいるきょうだいには、親が思う以上に愛を伝えることや抱きしめることが大事なんだと気づいた出来事でした。
お話・写真提供/畠山織恵さん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
「イキプロ2.0」のYouTube動画の、亮夏さんと妹のつかささんによる「おしえて、にぃに」シリーズでは、きょうだいの仲むつまじい様子も公開。お互いに大事に思い合う2人の姿にほっこりします。次回の内容は現在の亮夏さんの仕事や、織恵さんが出版した本についてです。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年11月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
畠山織恵さん(はたけやまおりえ)
PROFILE
1979 年大阪府堺市生まれ。重度脳性まひの長男との暮らしと、能力開発事業に12年間携わった経験を踏まえ、2014 年障害児ゆえに不足する「体験・経験」を五感で習得する【GOKAN 療育プログラム】を独自監修。障害児支援施設を中心に20 施設500 名以上へ療育を提供。地方自治体、教育機関などでの講演活動も行う。
『ピンヒールで車椅子を押す』
「人と違う自分を好きになってほしい」と挑んだ重度脳性まひの長男の子育てや、周囲の人、家族とのかかわりを見つめた23年間にわたる親子と家族の成長記録。自分らしく生きる勇気がわく一冊。畠山織恵著/1540 円(すばる舎)