小児がんで2歳で両目を摘出した長男。両親の「あきらめたらいかん」の言葉で育まれた自己肯定感とは?【全盲のドラマー体験談】
4歳からドラムを始め、東京パラリンピックの閉会式にも出演した酒井響希さん(17歳)。現在は、生活面でも自立し、掃除や洗濯など、自分のことは自分でできるそうです。3歳で視覚支援学校の幼稚部に入園したとき、母の康子さん(46歳)は、毎日車で片道1時間かけて送迎していました。「子どものやりたいことは全力で応援したい」という父の健太郎さん(46歳)、母の康子さん、「できないことがあっても、できるようになるまで努力する」と前向きな響希さん自身にこれまでの道のりを聞きました。全4回のインタビューの3回目です。
幼稚園までの送迎時間は車で片道1時間。生後3カ月の妹を連れて送る毎日
――3歳になると、幼稚園や保育園に通い始める子どもも多いと思います。響希さんの場合は、どんな選択をしたのでしょうか?
康子さん(以下敬称略) 響希は2歳で両目を摘出しました。その1年後、3歳になったら幼稚園か保育園に通わせたいと考えていました。そのころの私は響希の障害を受け止められていなかったし、できるだけ普通の生活をさせてあげたいと思っていたので、地域の幼稚園や保育園の見学に行き、入園を相談しました。でも、目の見えない響希をサポートする、園生活を送るのは難しいと言われてしまいました。十数年前のことなので、今とは状況が少し異なるのかもしれませんが、長女が通っていた園も含めいくつも園に見学に行きましたが、すべて断られてしまいました。
そこで、視覚支援学校の幼稚部にも見学に行ってみました。響希の視覚の障害を受け入れられていなかった私は、視覚支援学校を候補に入れていなかったのですが、見学をしたところ、教え方も教材も視覚障害の子に特化していて、環境が整っていました。「この子の今後を考えたら、ここしかない」と思い、その場で入園を決めました。ただ、自宅から支援学校までが遠くて・・・。車で片道1時間かかりました。
――毎日の車での送迎は、とても大変だったのではないでしょうか?
康子 大変でした。ちょうど支援学校の幼稚部に通い始めた年に、響希の妹が生まれたんです。生後6カ月の妹を連れ、朝往復2時間かけて響希を幼稚部まで送り、家に戻ったと思ったらまたお迎えに往復2時間かけていました。送迎に使う時間は1日4時間です。長女もまだ幼稚園に通っていたので、下の子と一緒に近くのおじいちゃん、おばあちゃんに見てもらうこともありました。
私は本当に時間がなくて、睡眠さえろくにとれず、毎日バタバタしていました。でも、支援学校のおかげで響希は少しずつ自立し、1人で生活全般のことをなんでもできるようになりました。
支援学校では、勉強も生活面のこともすべて教えてくれる
――支援学校ではどんなことを教えてくれるのですか?
康子 学習面では、小学1年生から点字を学び、高校までは普通校と同じ教育が行われます。生活面でも自立できるよう、支援してくれています。
健太郎さん(以下敬称略) 幼稚部のときから、目が見えなくてもさまざまなことができるよう、こまやかな配慮をしてくれました。運動会のかけっこも、先生が笛を鳴らしながら、どこがゴールかわかるように先導してくれました。目が見えない響希も、その音を追いかけて全力で走れました。小学校での勉強も、目が見えない子どもに向け、わかりやすくしてくれました。文字を読むのは点字です。でも、算数の筆算は点字だとできないので視覚障害者用のそろばんを使用して計算方法を学びました。
響希さん(以下敬称略) 生活面では、学校に寄宿舎があります。自分のことは自分でできるよう、小学6年生になった4月から、週に1回寄宿舎で暮らすようになりました。徐々に日数を増やし中学1年生から平日は週5日寄宿舎で生活しています。月曜日の朝から寄宿舎で暮らし、学校の授業を受け、金曜日の夕方に自宅に帰ってきます。寄宿舎では洗濯も掃除も全部行うので、自分のことはだいたい全部自分でできるようになりました。
食事は寄宿舎で用意してもらえることもあり、料理はまだできませんが・・・。寄宿舎に入るまでは毎日母に車で送迎していましたが、今は1人で通学しています。通学も慣れるまでは母に付き添ってもらい、電車に乗る訓練や、車に気をつけながら安全に歩く練習をしました。
――康子さん、健太郎さんも点字は使えるのでしょうか?
康子 点字の表があれば照らし合わせ、どうにか読むことまではできますが、何もない状態だと読めません。もちろん書くこともできません。響希が点字を学び始めたとき、私も一緒に覚えようと思ったんです。支援学校のPTAに点字サークルがあって勉強したのですが、響希の成長のスピードが本当に早くて、ついていけなくなりました。私は見えるので、点字もつい目で見て覚えようとしてしまうんです。響希みたいに、指先だけで読むのとは感覚自体が異なるのかもしれません。これはあきらめたほうが気持ちがすっきりすると思い、覚えることをやめました。
小学生のときは作文コンクールで、3年連続入賞も
――響希さんが小学生のときには、作文コンクールに3年連続で入賞しています。
健太郎 ドラムはもちろん、何事にもチャレンジし続ける響希の姿勢は、わが子ながら立派だと思います。ふだんから「あきらめたらあかん」と言っているのですが、その思いが伝わっているとしたらうれしいです。
康子 作文には「できないことがあっても人の2倍、3倍努力したらできるようになる」と書いていました。小さいころから、努力をして前に進み続ける子でした。今まで響希から「これはできない」「無理」といったネガティブな言葉を聞いたことがないんです。親に頼らず自分の力でなんとかしようという気持ちが強い子です。自分が「こうしたい」と決めたらできるまでやり続けます。すごく負けず嫌いな子だと思います。
寄宿舎に入っても、土日は自宅でドラムの練習に集中
――中学生になってから、ドラムの練習は自宅に帰った土日にしているのですか?
健太郎 そうです。練習時間が週末だけになり、短時間で集中的に練習するようになりました。最初は電子ドラムを使用していましたが、身体の成長に合わせ、何回かサイズの大きいものに買いかえています。大きいドラムは音も響くし、響希のたたく力も強くなっていきました。音も大きく激しくなっているので、家をリフォームし、子ども部屋だった部屋を改装して防音室にしました。
――防音室まで作るとは、響希さんのやりたいことに全面協力している様子が伝わります。
康子 もともと、夫婦ともに子どもたちがやりたがることは全部やらせてあげようと思っていました。途中で飽きてもいいし、浅く広くてもいいから、いろんな経験をさせたいです。私と夫は、子育てに関して同じ価値観を抱いていると思うし、子どもたちが小さいときから今にいたるまでその信念は変わりません。
もちろん響希に限らず、姉にも妹にも同様です。これまで、子どもたちが「やりたい」と言ったことを「それはダメ」と否定したことはほとんどないと思います。
――3人の子どもを育てるなかで、どんなことを心がけていましたか?
健太郎 目が見える、見えないに関係なく分けへだてなく育てることは意識していました。だから、子どもたちはだれでも悪いことをしたらきちんとしかっています。響希も目が見えないことをコンプレックスに感じたり、卑屈になったりしてほしくなかったので、ずっと「目が見えなくても、響希にしかできないことはかならずある」と伝え続けていました。
響希の姉と妹にも、響希は目が見えなくても、響希であることには変わりがない、偏見を持ったり、恥ずかしく感じたりすることはないと伝えてきたつもりです。
康子 私は、響希が病気で目が見えなくなったことを、受け入れるのに時間がかかりました。「みんな違ってみんないい」という言葉もありますが、そういう言葉もまったく耳に届かなかったんです。でも、響希自身が未来を信じていました。毎日小さな一歩ずつ踏み出している姿に励まされ、目が見えないことも受け入れられるようになりました。響希を通じていろんな人と知り合い、みんなが一生懸命頑張っていることも知りました。
どの子にもかならず成長する力があると絶対にあると思います。だから、子どもの可能性を信じてほしいと思います。
響希 もしできないことがあっても、努力や工夫をして、人の数倍練習すればできるようになります。もしかしたら、思わぬ事故や病気でこれまでできていたことができなくなった人も世の中にたくさんいると思います。でも、僕自身病気をして目が見えなくなったけれど、ドラムを通じて大切なものを手に入れられたと思います。人生の途中で障害を持ってしまっても、希望が失われたわけではないはずです。悲しい思いをしていても、自分が楽しくなるように、人生を変えていくことは絶対にできると信じているし、輝ける場所はあると思います。希望や勇気をいろんな人に伝えていきたいと思いながらドラムを演奏しています。
お話・写真提供/酒井健太郎さん、康子さん、響希さん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部
「見えなくても大丈夫。できることはあるよ」と伝え続けてきた両親の言葉は、しっかり響希さんに届いているようです。負けず嫌いな性格だという強さと、両親の自己肯定感をはぐくむ声かけにより、ドラムで多くの人に希望を届ける現在の響希さんに成長したのでしょう。
酒井響希さん(さかいひびき)
PPOFILE
2006年生まれ。両眼性網膜芽細胞腫(小児がん)により2歳で両目を摘出し全盲に。全盲となってから音に強い興味を持ち、4歳からドラムを習い始め、めきめきと上達。最近ではラジオ、テレビ出演、イベント出演等で活躍の場を広げている。