小学生ごろから「本当の子どもではないのかも・・・」との違和感が。養子だったことを知ったのは自身の結婚のタイミング【俳優・平野隼人インタビュー】
ゲーム、ボイスドラマ、舞台、映画など多方面で活躍する声優・俳優の平野隼人さん。平野さんは、幼いころ特別養子縁組で育ての親に迎え入れられました。育ての親への思いや子ども時代に「自分は本当の子どもではないのかも・・・」と感じたことなどについて聞きました。
全2回インタビューの前編です。
小学生ごろから「本当の子どもではないのかも・・・」と思うように
平野隼人さんが、特別養子縁組で育ての親に迎え入れられたのは2歳ごろのこと。
特別養子縁組とは、さまざまな事情によって生みの親のもとでは暮らせない子どもを、自分の子どもとして法的な親子関係を結び、迎え入れる制度です。「実親の同意」、「育ての親になるには、25歳以上で配偶者がいること」「養子になる子は、家庭裁判所に審判を請求するときに15歳未満であること」などの条件があります。
――特別養子縁組で、育ての親に迎え入れられたときのことを覚えていますか。
平野さん(以下敬称略) 私が特別養子縁組で、育ての親に迎え入れられたのは2歳ごろのことのようです。幼いので当時のことは、ほとんど覚えていません。
そして、私が特別養子縁組で今の父母の子どもになったということを知ったのは、大人になってからのことです。幼少期には知りませんでした。
ただ小学生になってから、漠然と「自分は、もしかしてお父さん、お母さんの本当の子どもではないのかも・・・」と思うようになりました。
――それはなぜでしょうか?
平野 まず両親と顔立ちがまったく似ていないし、体格も違いました。今、私は身長172cmですが、父は私より頭1つ分小さいです。昔から小柄な印象です。
そして家にあるアルバムを見たりしたときに、赤ちゃん時代の写真が1枚もないことも気になっていました。アルバムにある、いちばん小さいときの写真は、どこかの室内で撮ったものでした。自分が暮らしていた家ではありません。子ども心に「この部屋、なんとなく覚えている・・・」と思っていました。今は、私が育った乳児院で撮った写真だったんじゃないかなと思っています。
そうしたことが1つ1つ重なって、子ども心に「何か違うな・・・。もしかして・・・」と思うようになりました。ただ両親には、聞いたりしませんでした。
自宅の庭で育ての父にサッカーを教わり、水泳や空手の習い事も
地元で子どもたちにサッカーを教えていた育ての父の影響もあり、平野さんは幼いころからスポーツが大好き。スポーツ系の習い事も積極的にしていました。
――育ての親に、出生のことを聞こうとは思わなかったのでしょうか。
平野 「もしかして・・・」という思いは少しあっても、日々の生活に影響するほどのことでもなく、毎日楽しく過ごしていました。そのことを確かめたいという気持ちもありませんでした。
両親は、私をとても大切に、そしてかわいがって育ててくれていたと思います。血のつながっている親子と何も変わりはないと思います。
両親は、いろいろなことにもチャレンジさせてくれました。子ども時代は空手、水泳などを習わせてくれました。水泳は3歳から習い始めました。
サッカーは、父が地元で子どもたちに教えていて、時間があると私にも自宅の庭でサッカーを教えてくれました。
――平野さんは、水泳が得意ですよね。
平野 小・中学生のころから水泳が得意で、高校は水泳のスポーツ推薦で同じ県内の高校に入学しました。県内ではありましたが、通える範囲ではなかったので、高校入学と同時に自宅を出て、寮で生活することになりました。
高校3年生のとき、沖縄でインターハイがあったのですが、両親が青森からわざわざ応援に駆けつけてくれたときは、本当にうれしかったです。
――高校卒業後のことを教えてください。
平野 高校のときアニメや映画が好きな友だちがいて、だんだん声優の世界に魅かれるようになりました。高校卒業後、上京して声優の専門学校に入りました。
両親に「将来、声優や役者になりたい」と伝えたとき、母は「挑戦してみたら?」と応援してくれたのですが、父は私には何も言わないけれど、かなり心配していたようです。
父は公務員なので、高校を卒業したら息子も公務員の道に進むのではないかと考えていたようです。
結婚するときに、戸籍謄本を見て特別養子縁組のことを知る
小学生のころから「自分は、もしかして本当の子どもではないのかも・・・」と思っていた平野さん。特別養子縁組をした子どもであるとわかったのは、結婚するときでした。
――特別養子縁組のことは、いつわかったのでしょうか。
平野 私が結婚するときです。結婚の手続きをするために戸籍謄本を取り寄せたら、そこには特別養子縁組の成立を示す「民法817条の2による裁判確定」と記されていて、「やっぱり・・・」と思いました。子どものころから「もしかして・・・」という思いがあったので、ショックを受けたりはしませんでした。
――結婚の手続きで戸籍謄本を取り寄せて、特別養子縁組と知ったことについては育ての親に伝えたのでしょうか。
平野 育ての母に電話をして、開口一番「これまで育ててくれてありがとう」と伝えました。
母は「うそをついていてごめんね」と謝っていましたが、私は「うそをつかれた」なんてまったく思いませんでした。「愛情をいっぱいかけて育ててくれてありがとう」という感謝の気持ちしかありませんでした。
――両親から、真実告知はされなかったのですね。
平野 特別養子縁組をすると真実告知といって、育ての親が子どもに、生みの親がいることやその人は事情があって、育てることができなかったことなどを伝えます。しかし父に聞いたところ「当時は、真実告知をしないケースも多かった」と言われました。
――その後改めて、育ての親に自身の出生のことなどを聞きましたか。
平野 とくに聞いたりはしていませんし、聞こうとも思いません。たとえば実の子が実の親に「なんで僕のこと産んだの?」などと、理由は聞いたりしないのではないでしょうか。それと同じ感じです。
ほんの少しの違和感があったといっても、父母のことは、ずっと父母だと思ってきていましたし、特別養子縁組のことを知ったからといって、両親への思いや両親との関係は何も変わるものでもありません。血のつながりがすべてではないんじゃないかな、と私は考えています。
私が中学2年生のときに、父は60歳を迎えました。父が48歳ごろのときに当時2歳の私を特別養子縁組で迎え入れてくれたのですが、自分が大人になった今は、その当時の父母は、どんな思いで2歳の子を迎え入れたんだろう? そこに至るまで、さまざまな悩みがあったんだろうな・・・と考えます。
お話/平野隼人さん 協力・写真提供/PONTE 取材・文/麻生珠恵、たまひよONLINE編集部
さまざまな事情で親と離れて暮らす子どもたちは、日本には約4万2000人いると言われています。平野さんが、自身の経験を話してくれたのは、そうした子どもたちがいるということを、もっと多くの人に知ってほしいという思いからだそうです。特別養子縁組で育ての親の元で成長をした経験をもつ平野さんは、現在は自身が里親としての活動をしています。
インタビュー後編は、平野隼人さんが里親になった理由について聞きました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
平野隼人さん(ひらのはやと)
PROFILE
青森県出身。声優・俳優として、ゲーム「忍スピリッツS 真田獣勇士伝」海野六郎、ボイスドラマ「地獄くらやみ花もなき」小野篁/獅堂暁希人、映画GEMNIBUS vol.1「ゴジラVSメガロ」などに出演。2022年に夫婦で里親認定を受ける。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年9月の情報であり、現在と異なる場合があります。