1歳を過ぎたころ、できていたことができなくなり・・・。「ほかの子と何かが違う?」が、ある日確証に【重度自閉症体験談】
内田敦子さんの一人息子の博仁(はくと)さん(16歳・高校1年生)は、3歳のとき重度の自閉スペクトラム症(以下自閉症)で、重度の知的障害の疑いもあると診断されました。実際、博仁さんは意味のある言葉を話せず、感情を表情に表すこともできませんでした。
でも現在の博仁さんは、タブレットに文字を入力して意思表示ができるばかりか、長文の作品を執筆し、数々の賞を受賞しています。
博仁さんの可能性を信じて寄り添い、見守り続けた敦子さんに、16年間を振り返ってもらう全3回のインタビューです。
1回目は、博仁さんが重度の自閉症と診断された3歳ごろまでのことについて聞きました。
1歳を数カ月過ぎたころ、「できていたことができなくなる」恐怖におののく
――博仁さんが生まれるまでのことを教えてください。
敦子さん(以下敬称略) 同い年の夫と30歳のときに結婚しました。数年は共働きでしたが、私は妊活のために退職。出産後もしばらくは育児に専念しようと考えていたんです。
36歳のとき念願の妊娠が判明し、夫とともに大喜び。30代後半での初産でしたが、妊娠・出産はとても順調で、なんの問題もなく博仁は生まれてきました。
――1歳ごろまではすくすくと育ち、気になることはなかったとか。
敦子 そうなんです。初めての育児で毎日ドキドキの連続ではありましたが、発育・発達で気になることは何もありませんでした。1歳になるころ車を大好きになり、ミニカーを前後に動かして楽しそうに遊んでいた姿が、今でもはっきりと目に浮かびます。想像遊びができていたんですよね。
ところが、それから数カ月したころから、「周囲の子たちとちょっと違う」と感じるようになったんです。
――とくに気になったのはどのようなことですか。
敦子 「〇〇はどれ?」と聞いても指さしをしないし、いつも目線が合いません。それに、つま先歩きや物を斜めに見ようとするなど、「なんだかおかしい」と感じる行動が始終見られるようになりました。しかも、あんなに上手だった車遊びができなくなり、ミニカーをガンガンと床にたたきつけるように。
「できていたことができなくなっている。博仁の中で何が起こっているんだろう」と、ものすごい恐怖を感じました。
のちに知ったのですが、できていたことができなくなるのは、重度自閉症の子どもにはよくあることで、重度自閉症の子どもをもつ多くのママ・パパが、この恐怖を経験したことがあるようです。
健診で指示どおりにできることが何もない息子。「やっぱり自閉症なんだ・・・」
――「なんだかおかしい」と感じたことを、専門家に相談しましたか。
敦子 1歳半ごろ市の発達相談で博仁の様子を見てもらいました。担当の方には「まだ自閉症とはわからない」」と言われたのですが、そのすぐあとに1歳半健診があり、指さしなどの課題を息子は何ひとつできませんでした。担当した方が「ああこれは・・・」という表情をしていたのをよく覚えています。
このときも「まだわからない」と言われましたが、私は自閉症ではないかと疑っていて、いろいろと調べてから健診に臨んでいました。検査をした方の反応を見て、「やっぱり博仁は自閉症なんだ」と、目の前が真っ暗になりました。
自閉症という重い病気のことを受けとめられず、健診会場から帰る車の中では涙が止まりませんでした。車の中は自分たちしかいない個室で、人の目を気にしなくていいから、泣き続けました。博仁はまだよく状況を理解してなかったとは思いますが、母親が泣いている姿を見て一緒につらそうにしていました。
――診断は3歳のときだったとか。
敦子 地元の療育センター所属の専門の先生によって、重度の自閉症で重度の知的障害の疑いもあると診断されました。
診断が下りるより前から療育を始めていたので、診断については冷静に受け止めることができました。
1歳半健診のあと、博仁のためにできることはないのか、ネットで情報を調べたり、いろいろな療育の教室に行ってさまざまな方法にチャレンジしたりしたんです。毎日が博仁の自閉症のことだけを考えて過ぎていく感じでした。すごく忙しかったけれど、振り返ってみると、忙しすぎて思い悩む時間がなかったのは、私にとってよかったんじゃないかと思います。
それにいろいろな療育の教室に参加することで、同じ境遇のママ・パパとたくさん知り合うことができ、「仲間がいる」と感じられたのは、とても励みになりました。
息子のためになることを探す。その思いに突き動かされ、日本各地の病院も受診
――療育に通う中で、ボランティアスタッフから言われた、印象的な言葉があったそうですね。
敦子 療育センターに通い始める前に、市の訓練会に通っていました。息子が3歳になる前ごろだったと思います。ボランティアのスタッフさんが「この子の将来は決まっている。大人になっても働くことはできないでしょう」って。
こう聞くと「なんてひどいことを言うんだろう」と思われるかもしれませんね。でも、そのスタッフさんの発言の意図は「お子さんをフォローする道筋はできているから、お母さんたちは思い悩まなくても大丈夫ですよ」という励ましだったんです。自閉症のお子さんをたくさん見てきたスタッフさんで、私の気持ちを楽にしてあげたいという心配りからの言葉だったと思います。
自閉症の子どもが、大人になっても受けられるサポートがあるのはありがたいことです。でも、3歳になるかならないかの子どもの人生がすでに決まっている、成長や発達は望めないなんて、そんな悲しいことはありません。とてもショックを受けました。
少しでも息子の状態をよくしたいと願い、必死でいろいろな場所に連れて行って頑張っているころだったので・・・。
――日本各地のさまざま病院でも相談していたそうです。
敦子 自閉症の診断やフォローアップを行っている病院を調べて、博仁によさそうと思えたところは、家からの距離はまったく考えずに受診していました。北海道の病院にも行ったし、一度だけアメリカ・カリフォルニアの病院に行ったこともあります。当時は「博仁のために何かせずにはいられない」っていう心境でした。
博仁の成長とともに、私の中のそうしたひっ迫感は落ち着き、今は家から通える大学にあるクリニックで、定期的に診てもらうだけになっています。
――博仁さんの自閉症のことを、夫婦ではどのように話し合っていましたか。
敦子 夫には検査の様子や結果などを逐一話し、共有していました。夫はわりと深く考えるタイプなので、私の中で消化してから報告する、という感じだったかもしれません。
でも、博仁のために何ができるか、何をすればいいのかは常に一緒に考えました。「博仁の可能性をあきらめずに信じる」。これが私たち夫婦共通の思いでした。
私の手を使って次々に正解を当てる息子。言葉の意味をわかっている!?
――言葉を理解できないと思われていた博仁さんに、驚くようなことが起こりました。
敦子 忘れもしない2歳半ごろ、私の実家にいたときのことです。ボタンを押すといろいろな音が鳴り、それが何の音かを当てるおもちゃで、一緒に遊んでいました。言葉の意味はわからなくても、音が鳴れば楽しいかなと思って。
救急車のサイレンが鳴り、「これは何の音かな?」とおもちゃが問いかけたとき、博仁が突然私の手をぐっとつかみ、正解である救急車の絵のところに持って行ったんです。私は一緒に見ていた母と顔を見合わせて、同時に「えっ!?」。
あわてて「これは?」「これは?」「これは?」って次々に音を出していきました。すると、博仁は問われるたびに私の手をつかみ、正解を示しました。全問正解です!! 今では自分自身で文字を打てますが、当時は自分の手を自分の意志で動かすことが難しかったんです。
「偶然なんかじゃない。この子は問われたことを理解して、ちゃんと正解を出しているんだ」って確信しました。
今でも忘れられない瞬間です。これからも一生忘れないと思います。
自宅に帰る道中、車を運転しながら「そうだよね、わかっていたんだよね~」と、何度も何度もつぶやいていました。暗闇に光が差したように感じたんです。
お話・お写真提供/内田敦子さん 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
妊活の末に授かった博仁さんに重い自閉症があることがわかり、絶望的な気持ちになったという敦子さん。でも、「博仁のためになることを探す」という強い思いから、さまざまな療育を受けたり、病院で相談したりする日々が続きました。そして3歳になる前に、博仁さんが言葉を理解していることがわかったのです。
インタビューの2回目は、言葉を話せない博仁さんが、キーボードで言葉をつづれるようになるまでの経過などについて聞きます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年10月の情報であり、現在と異なる場合があります。