SHOP

内祝い

  1. トップ
  2. 赤ちゃん・育児
  3. 「長女の不登校は私のせい」と自身を責める日々。発達障害かも…という不安、でもだれかに否定してほしい気持ちも【精神科医さわ】

「長女の不登校は私のせい」と自身を責める日々。発達障害かも…という不安、でもだれかに否定してほしい気持ちも【精神科医さわ】

更新

二女が生まれてお姉ちゃんになった長女は、妹をとってもかわいがっていたそうです。

児童精神科医で小学生の娘2人を育てるシングルマザーの“精神科医さわ”こと河合佐和先生。YouTubeチャンネル「精神科医さわの幸せの処方箋」も人気です。YouTubeでは長女に発達障害があり不登校であることなど自身の子育て経験についても語っています。
さわ先生に、自身が育った環境や精神科医になった理由、そして自身の子育てについて聞きました。全2回のインタビューの前編です。

「勉強さえしていればいい」と言われた子ども時代

2人で遊んでいるときはいつもニコニコ、笑顔が絶えない姉妹です。

――先生が育った家庭は学習面でとても厳しかったそうです。子どものころはどう感じていましたか?

さわ先生(以下敬称略) 私の両親は愛情深い人ではありますが、学業については厳しく「成績がすべて」といった価値観でした。私が料理をしてみたくてキッチンに立つと「あなたはそんなことしなくてもいい、勉強さえしていればいい」と言われるくらいです。そのころほかの家庭のことはわからないし、子どものころは、とくにうちだけが厳しいとは感じなかったと思います。

私は小学校4年生ごろにすごく成績がよく偏差値のピークを迎えましたが、5年生ごろから塾での成績が急激に下がってしまいました。成績表の偏差値がどんどん下がっていくのを見て「この悪い成績を親に見られるくらいなら消えてしまいたい。大雨が降って成績表ごと郵便ポストがどこかへ流されてしまったらいいのに」などと考えていました。自分の親が学歴信仰が強いタイプだと気づいたのは、思春期を過ぎたくらいだったと思います。

――勉強が大変だった経験から、先生自身が子育てするときにはどのような親でありたいと思っていましたか?

さわ 私は小学生のころは自分の親は正しいと思っていましたが、医学部で精神科医を志して学んだり、学生生活を送ったりするなかで生きづらさを感じるようになりました。
たとえばつき合っている人と別れるとき死んでしまいたいと思ってしまったり、すぐ人の顔色をうかがったり・・・そういう自分の人格の未熟さに気づいたんです。同時に自分が「勉強ができないと価値がない人間だ」という価値観になってしまっていることに気づきました。

だけど、人はいい大学に行っているから、大企業に勤めるから価値があるわけではありません。どんな人でも存在するだけでその価値があるはずです。だから自分の子どもには、その子の存在そのままを肯定してあげたいし、子ども自身が自分自身を肯定できる心をはぐくめるような親でありたいと思いました。子育てでいちばん意識したことは「子どもを条件つきで愛さない」ということかもしれません。

夜中に泣き叫んで寝なかった長女

二女が1歳のころ。近所の桜を見に行きました。

――先生は現在小学生の娘2人を育てるシングルマザーだそうです。娘さんたちが小さいときの子育てのことを教えてください。

さわ 研修医の2年目に結婚し、その後出産をして、長女が1歳の1年間は夫の仕事の都合でアメリカで過ごしました。その1年間の長女の子育てはとても大変でした。長女は0歳のころは夜もよく寝ていたんですが、1歳を過ぎたころから、毎晩約2時間おきに何かにおびえるように突然泣き叫んでなかなか寝ない、ということが続きました。

住んでいた部屋の壁が薄かったのか、隣人から「赤ちゃんの泣き声がうるさくて眠れない」と毎日のようにクレームが来ました。わが家の寝室が隣人の寝室と隣り合わせだったらしく、最終的には「ベッドルームじゃなくてリビングルームで寝かせて」とまで言われたんです。どんなにあやしても娘はなかなか寝てくれないし、毎日クレームが来るしで、本当に追い詰められていました。

――長女は日中はどんな様子でしたか?

さわ 日中もなにかスイッチが入ると床にひっくり返って泣き叫んで、手がつけられないくらいのかんしゃくを起こすことがよくありました。感覚の過敏さもありました。服の生地の素材やタグ、おむつのチクチク具合など、素材によってすごく嫌がっていました。チクチクする服は着られない、と嫌がって脱ぎ捨てられることもありました。光のまぶしさにも過敏で、車を運転していて西日が強いときにも泣き叫んでいたし、よく行くスーパーで駐車する場所がいつもと違うときにも尋常じゃない泣き叫び方をすることもありました。今思うとそれらは、長女の感覚の過敏さやこだわりの強さのためだったと思います。

当時は初めての子育てだったから「こういうものなのかな、子育てってこんなに大変なんだな」と思っていたんです。

だけど、当時仲よくしていた5歳の男の子を育てる先輩ママが、あるとき「さわさんすごいね、よく頑張ってるね」と優しいねぎらいの言葉をかけてくれたんです。きっとそのママは、娘の泣き方は普通よりも気難しさがあると感じたんだと思います。そのころから、もしかすると娘には発達障害(医学的には「神経発達症」といいます)があるのかもしれない、と気になるようになりました。

――その後二女を出産して、違いを感じたことはありますか?

さわ 日本に帰国してから二女を出産しました。二女は睡眠の質や泣き方が長女のときとは全然違って「こんなに育てやすいのか!」と驚きました。二女を育ててみて、長女にはおそらく発達障害があるだろうと確信したのを覚えています。

長女は発達障害があるかもしれない、でも・・・

長女の3歳の誕生日。部屋をデコレーションして家族でお祝いしました。

――日本に帰国後、長女の幼稚園などでの様子はどうでしたか?

さわ 2歳から幼稚園に通い始めた長女は、クラスになじめなくて泣き叫ぶことがよくありました。あまりに泣き叫ぶので、娘だけ別室で見てもらっているようなこともありました。それで、あるとき担任の先生との面談で「娘は発達障害かもしれないと思いながら育てているんです」と伝えました。そうしたら、先生は「実は私もそう思っていました。保護者の方からそう言ってもらえると助かります。私たちもそのつもりで娘さんに寄り添ってケアしますね」と言ってくださいました。

正直、複雑な気持ちでした。どこかで「そんなことないですよ」と否定されたかった自分もいたんです。私は当時、大人を診る精神科医であって、児童精神科医ではなかったので、たくさんの子どもを見てきたプロの言葉はきっと正しいんだろうな、と。その先生は長女を普通に合わせようとするのではなく、長女のペースでの成長を見ようとしてくれました。娘も徐々に安心して通えるように。年少の秋ぐらいまでは園の行事に参加するのも難しかったんですが、冬くらいから徐々にお友だちと同じように活動ができるようになったんです。

私は娘に発達障害があるかもしれないと思いながらも、もしかしたら小学校もお友だちと同じようにやっていけるかもしれない、と思い、長女を公立小学校に入学させることにしました。

――小学校に入学後、いつごろから登校しなくなったのでしょうか。

さわ 小学校1年生になってまもなくから「学校がこわい」と登校を嫌がるようになりました。長女が2歳、二女が0歳のときに離婚してシングルマザーになった私は、そのころは勤務医だったので、生活のためにも仕事に行かなくてはなりませんでした。「学校に行きたくない」という娘をなかば引っ張るように校門まで連れていくこともありました。先生に連れられていく娘が泣き叫ぶ声を聞いて、「仕事を休んで一緒にいてあげたほうがいいんじゃないか」と胸が引き裂かれるような思いでした。

学校に行けないのは自分のせいかもしれない、と不安だった

段ボールを見つけるとすぐにおもちゃにする2人。

――長女の発達について受診したきっかけはどんなことでしたか?

さわ 私は、長女の登校しぶりは発達障害があることに関係がありそうだと思いつつ、診断を受けに行っていなかったんです。ですが、私の両親から「仕事を休んででも娘の登校につき添うべきだ」「発達障害なら診断を受けにいくべきだ」と言われました。両親にとっては孫が小学校に行かないことは受け入れられなかったんだと思います。それで、1年生のころに小児科でWISC(ウィスク※)という知能検査を受けました。その結果、長女は「自閉スペクトラム症(ASD)」があると診断されました。

――診断を受けてどう感じましたか?

さわ ほっとしました。長女が小学校に行けなくなったとき「自分がだめな母親だからこの子が学校に行けないのかな」と悩みましたし、親からも「あなたが母親としてしっかりしていないから行けないんじゃないか」と言われ、責められていると感じていたんです。診断を受けて、しんどかった子育てに1つの答えが出た気がしました。

受診した小児科の先生が「学校に行くのに時間がかかる子は、時間をかければいいだけよ。ニュージーランドとか外国に移住して子育てしてもいいんじゃない?」と言ってくれたんです。私は日本の学校に適応させなきゃ、と強いプレッシャーを感じていたので、そんなに頑張らなくていいんだ、無理に学校に連れて行かなくていいんだ、と安心して、その場で大泣きしてしまいました。

2年生からはつき添い登校をしながら少し登校していましたが、しだいに登校する日は少なくなり、今はほとんど自宅で過ごしています。

※5歳0カ月〜16歳11カ月までの児童を対象とした神経発達症の補助検査

長女の不登校をきっかけに、開業を決意

勤務医時代は長女を職場に連れて行くこともありました。

――さわ先生がクリニックの開業を決めた理由も、長女の不登校に関係がありますか?

さわ 長女が完全に不登校状態になった当時、私は長女を家に1人で置いておけないので職場に連れていったりしていたんです。しかたないことではあるけれど、勤務先に対する申し訳なさがありました。
もともと将来的に開業を考えてはいたんですが、今自分のクリニックを開業すれば、長女を職場に気兼ねなく連れていけるだろうと、思いきって開業を決意しました。

――先生の両親は長女の不登校について受け止めてくれているのでしょうか。

さわ 私の両親は、長女が登校しぶりをし始めた当初は「親が学校につき添って連れていくべきだ」という考えでした。父はもともと内科医なんですが、発達障害は比較的新しい概念なので、父が医学生時代には学んでいなかったのでしょう。

私がクリニックの開業を決めたときも初めは両親から「仕事している場合じゃない、子どもの登校につき添うべき」という理由で反対されましたが、最終的には2人とも応援してくれました。
学習面では厳しい両親ですが、2人ともとても愛情深い人たちです。父は本を買って、発達障害について勉強してくれたようでした。

今、両親は長女を無理に学校に行かせようとはしないでそばにいてくれるし、一緒に留守番をしたり、長女が行きたいと言えば習い事などや外出に連れて行ってくれます。私は仕事ばかりしているので、2人の娘の子育ては両親に支えてもらっています。

――二女はどんなふうに過ごしていますか?

さわ 二女は長女と同じ小学校に入学したんですが、長女が不登校のためか二女も学校に行きたがらなかったため、1年生の夏休みにほかの小学校への転校を私から提案して見学し、秋に転校しました。二女は文字を書くことが極端に苦手で、学習内容を理解はしていても学力が伸びないところがありました。最近受診したところ、学習障害(LD)という診断を受けました。そのため学力の面では難しさはあるものの、転校した学校では、必要に応じて学習をサポートしてくれる先生がいるので、二女はそのサポートを受けながら、楽しく学校に通っています。

お話・写真提供/河合佐和先生、取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>後編

長女が幼稚園のころ、送迎をママ友たちと手分けして行ったり、さわ先生の自宅で親子数組が集まって食事をしたり、おふろに入ったりと、みんなで子育てを助け合っていたそうです。さわ先生は 「シングルマザーで苦しいこともあったけれど、友人たちに恵まれたから、つらいワンオペ育児ではなかったです」と話しています。

後編では診察室でのエピソードやYouTube発信の思いなどについての内容です。

河合 佐和先生(かわい さわ)

PROFILE
児童精神科医。精神科専門医、精神保健指定医、公認心理師。
1984年三重県生まれ。藤田医科大学医学部を卒業後、勤務医を経て2021年に名古屋で塩釜口こころクリニックを開院。開業直後から予約が殺到し、現在も毎月約400人の親子の診察を行っている。これまで延べ3万人以上の診察に携わってきた。
2人の娘を育てるシングルマザー。長女が不登校となり、発達障害と診断される。

Youtubeチャンネル「精神科医さわの幸せの処方箋」

●記事の内容は2024年10月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

『子どもが本当に思っていること』

発達障害の不登校児を育てながらYouTubeでも大人気の精神科医さわ先生が集めた事例を紹介。子どもの心の声がわかり、親子の関係が変わる本。精神科医さわ著/1650円(日本実業出版社)

赤ちゃん・育児の人気記事ランキング
関連記事
赤ちゃん・育児の人気テーマ
新着記事
ABJマーク 11091000

ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号 第11091000号)です。 ABJマークの詳細、ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら→ https://aebs.or.jp/

本サイトに掲載されている記事・写真・イラスト等のコンテンツの無断転載を禁じます。