登校しぶりの長男と脳性まひの二男のケアのため、夫婦ともに仕事を辞めることに。向き合い続けた「仕事と育児の両立」のむずかしさ【体験談】
千葉県在住の三村晋也さんと晃子さん夫婦は、長男の春人くん(8歳)と、二男の康介くん(6歳)の4人家族です。
二男の康介くんは生まれて間もないころから重症心身障害を抱えており、24時間の医療的ケアが必要なため、晃子さんは仕事を辞めました。そんな中、長男の春人くんの登校しぶりが始まり、晃子さんは毎日つき添って一緒に学校へ行くことに。晋也さんは二男の育児のために休職したのち、退職を決断することになりました。
そんな状況から、晋也さんは障害や不登校など課題を抱える子どもたちとその家族がともに暮らしやすい社会をめざして「フリースクールオリコス」を立ち上げました。今回は、康介くんの妊娠・出産時のことから、春人くんの登校しぶり、これまでの育児生活を三村さん夫婦に振り返ってもらいました。全2回のインタビューの前編です。
妊娠6カ月で康介くんを出産。「手術できない」と言われ障害を抱えることに
二男の康介くんの妊娠経過は順調だったという晃子さん。ところが妊娠19週(5カ月)の妊婦健診で、切迫流産(せっぱくりゅうざん)と診断を受けました。
「妻が妊娠19週になったときのことです。通っていた病院で切迫流産と診断され、大きな病院に転院しました。医師から『今すぐ生まれてしまうと助けることができない。22週になれば命は救えるかもしれない』と伝えられ、そのまま入院となりました。
なんとか22週まで持たせようと、張り止めの点滴を打って、ベッドの上で絶対安静で約4週間入院していました。そして23週0日になったときに、妻が産気づき、そのまま緊急分娩となりました。帝王切開のほうが安全でしたが、もう赤ちゃんが出てきていたため手術がむずかしく、自然分娩での出産となりました。
息子が生まれたときの体重は577グラム。そのとき、脳内に出血があり、脳の髄液がたまってしまう水頭症という状態でした。すぐにNICUに入っていろいろと処置をしてもらいましたが、医師からは『体が小さすぎて手術ができない』と言われ、手のほどこしようがなく…脳に障害を抱えることになりました。いわゆる脳性まひです」(晋也さん)
突然の入院から出産にいたるまで、いろんなことが起こっている状態で、それを受け止めるのに精いっぱいで理解がついていかなかったという晃子さん。
「出産当時は、妊娠6カ月で赤ちゃんの身体がまだ十分に発達していない状態だったので、障害が出る可能性があるだろうと感じていました。でも子どもの障害がどうこうより、とにかく命が続いてくれればいいという思いでした。不安もありましたが、未来のことを考えるより、その日、そのときの命を守ることでいっぱいいっぱいだった気がします。そのまま二男は約1年間入院し、体重が約5000グラムを超えたころ退院しました」(晃子さん)
退院後、24時間のケアと入退院を繰り返す日々
当時、育児休業中だった晃子さん。24時間態勢で医療的ケアを行う日々が始まります。
「退院してからは、医療的ケアをすることに慣れていなかったため、自宅でのケアに苦労しました。とくにたいへんだったのは、食事ですね。康介の体がまだ小さかったため、最初は1日に6回に分けてごはんをあげていました。最後の6回目が深夜1時で、食べている途中で吐くことが心配だったので、様子を見ながら慎重に進めていたため、私が寝るのはいつも午前2時過ぎになってしまって。寝ている間も康介のことが気になってしまい、しっかり睡眠を取ることができず、つねに睡眠不足の状態でした。その時期は、体力的にも精神的にももっともつらい時期だったと思います。
それから康介が5歳になるころまで、体調を崩すことがとても多く、とくに夜中に具合が悪くなることがほとんどでした。そのため、夫と2人で深夜に病院に連れて行く日々が続いて…。そういうときは、祖父母に家に来てもらい、兄の春人の面倒を見てもらいました。私たちは朝まで病院でつき添い、そのまま家に戻れないことも頻繁にあり、さらに入退院を繰り返す生活が続いていました」(晃子さん)
晃子さんは3年間の育児休業後に復職することを希望していましたが、康介くんを預けられる保育園が見つからずに退職を決断したそうです。
長男が登校をしぶるように…。晋也さんも退職を決断
そんな中、突然長男の春人くんが登校に強い抵抗を示すようになりました。
「 春人は小学1年生の10月ごろから登校をしぶるようになりました。最初はバスで通学していましたが、次第に送ってほしいと言うようになり、最終的には登校時刻になると体が動かなくなりました。
具体的な原因は不明ですが、小学校に入ることによる生活の変化や学校行事の増加、家庭環境の影響が重なり、不安が大きくなったのだと思います。私たちが弟の病院につきっきりで、帰りが遅くなる日も多かったため、家庭でも不安な日々を過ごしていたのでしょう。
春人は『お母さんと一緒なら学校に行ける』と言うので、私が毎日学校につき添いました。1年3カ月のあいだ、なんとか不登校にはならず、1日数時間、学校の相談室にも通っていました」(晃子さん)
そのため晃子さんが春人くんと学校に行っている間、晋也さんが康介くんのケアをすることに。晋也さんにも当時のお話をお聞きしました。
「私はそのとき教員として働いていました。長男の登校しぶりが始まった当初は、仕事を休んで私が康介の育児をしていましたが、だんだんと仕事にも影響が出てきて、あせりが大きかったです。なんとか仕事に穴を開けたくない…長男にも学校に行ってもらいたいと思っていましたが、それでもなかなか見通しが立たなかったので、1年間休職し、2024年3月に退職しました。
休職している間は給料をもらっているわけではないので、今後の自分の身の振り方をいろいろ考えました。転職先や家庭教師などオンラインでできる仕事を探してみたこともあったのですが、息子のケアで休んだり途中で抜けたりすることを考えると、どれもむずかしいなと…。さまざまな方に相談し、最終的に自分でフリースクールをつくろうという決断にいたりました」(晋也さん)
現在きょうだいは一緒の小学校へ。家族旅行にも挑戦!
現在、兄の春人くんは小学3年生、弟の康介くんは小学1年生。同じ小学校に通っています。春人くんは今では晃子さんのつき添いがなくても学校に通うことができるようになったそう。
「春人が小学3年生になった年の5月ごろに私が体調を崩してしまい…。学校に一緒に行くことができなくなりました。そのとき春人が『じゃあ、ちょっと1人で行ってみる!』と。突然1人で登校できるようになったんです。
とくに具体的な解決策があったわけではありませんが、学年が進んで担任の先生や友だちとうまく関係を築けるようになり、居場所ができたことが大きかったと思います。今では、休み時間に友だちと外で遊ぶのが楽しいと言っています。
弟の康介も、兄と一緒の公立小学校に通っています。担任の先生や補助の先生方、さらに看護師さんが2人いらっしゃり、食事やおむつ替えなどもすべてお任せしています。学校ではとても手厚いサポートをしていただいており、恵まれた環境で過ごせていると感じています。
春人は、特別に面倒見がいいわけではありませんが(笑)、弟の手をやさしくつないで話しかけたり、ぬいぐるみをそっと近くに置いてぬいぐるみを使って話しかけたりしています。彼なりのかわいらしいコミュニケーションの取り方が微笑ましいです。
春人と一緒に学校に通った約1年3カ月は、私にとっても転機でもありました。それまでの生活は、家の中にこもりきりで、弟の康介につきっきりでケアしたり病院へ行ったりする日々でした。何かあったらどうしようと、つねに緊張していたと思います。
それが兄の春人と学校に一緒に行くことで、外の世界とつながることができた。それまで春人にはなかなか時間を使ってあげられなかったですが、一緒にいられる時間ができた。
本当なら息子のことをもっと心配すべきだと思うんですが、先生や春人の友だちと話すことで私自身も心身のリフレッシュができていたように思います」(晃子さん)
家族旅行の様子
また、現在は康介くんの症状が比較的落ち着いているため、家族でこれまでできなかったことに挑戦していると晋也さんは言います。
「康介は、最初は人工呼吸器をつけておらず、酸素投与だけでした。そのころはよく具合が悪くなり、つねにケアが必要だったり頻繁に病院に行ったりしていました。現在は人工呼吸器や加湿器といった医療的ケアのデバイスは増えたんですが、そのぶん康介の体調のいい状態を保てるようにもなって、病院に行く頻度も減りました。なので、ちょっと外出を増やしたり宿泊してみたり、これまでできなかったことに挑戦しています。
最近では、マザー牧場や千葉動物園、ディズニーランドにも行きました!宿泊の場合は酸素の機械の準備もありますし、医療機器の充電がもつ時間を考えたり、病院の近くのホテルという制限もあったりしますが、泊まりでの旅行にも挑戦してみました。
兄の春人も、小さいころはそういった場所に全然連れて行ってあげられなかった。両親が病院のつき添いで家を留守にしがちで、祖父母に面倒を見てもらっていたので、ずっと寂(さみ)しい思いをさせてしまっていたなと申し訳なく思います。そのぶん、今すごく楽しそうにしていて、私もうれしいです」(晋也さん)
お話・写真提供/三村晋也さん 取材・文/安田萌、たまひよONLINE編集部
息子たちのために仕事を辞める決断をした三村さん夫婦ですが、現在は春人くんも康介くんも楽しく小学校に通っていると言います。また、晋也さんは自身の経験をもとに、障害や不登校など課題を抱える子どもたちとその家族がともに暮らしやすい社会をめざして「フリースクールオリコス」を立ち上げました。インタビューの後編では、フリースクールを立ち上げた経緯や活動への思いについてお話を聞きました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
三村晋也さん
PROFILE
教員として10年以上勤務。
不登校の子どもへの支援をしたい思いから、フリースクールの立ち上げを決意。両親ともに働けない日々を過ごした経験から、「働けるフリースクール」フリースクールオリコスを立ち上げ、代表を務める。フリースクールをとおして、不登校の子どもを抱える家庭の仕事と育児の両立ができる社会をめざし、活動を続けている。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年11月の情報で、現在と異なる場合があります。