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小児がんの診断と同時に余命宣告を受けた11歳の長女。寄り添い過ごした、涙と感謝の10カ月【小児脳幹部グリオーマ・体験談】

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高木伸幸さんと、入院中の長女・優衣奈さん(当時11歳)。

世界でも治療法が確立されておらず、診断と同時に余命宣告される難治性小児がん「小児脳幹部グリオーマ(DIPG)」。11歳の長女、優衣奈(ゆいな)さんを約10カ月の闘病の末に亡くした高木伸幸さんは、ボランティア団体「トルコキキョウの会」を立ち上げ、小児がん患者や家族を支える活動を続けています。
高木さんに、優衣奈さんの発症からみとりまでの経緯、家族として感じたこと、現在の思いについて話を聞きました。全2回インタビューの前編です。

突然のふらつきに、「もしかして…」

――優衣奈さんの「小児脳幹部グリオーマ」発症に気づいたきっかけを教えてください。

高木さん(以下敬称略) 2013年のお正月、家族旅行で富士山に出かけました。優衣奈は元気いっぱいにスキーをしていたのですが、その数日後にちょっとふらついて歩いたり、目の焦点が合わない状態になっていたんです。私は若いときにボクシングの経験があり、脳出血などの脳障害について知識が少しだけあったので、「もしかしたら脳に何かあるかもしれない」と思いました。

病院を受診して検査を受けたところ、「脳幹に出血があります」と言われました。脳幹といえば、生命維持にかかわる重要なはたらきをしている場所です。ドキッとしました。大学病院への紹介状を書いてもらって、CT検査をしたのですが、その結果を見て主治医の先生が尋常じゃない深刻な顔をしていて…。「これは世界でも治療法が確立されていない小児脳幹部グリオーマで、余命は約1年でしょう」と、突然伝えられました。

小児脳幹部グリオーマは日本で年間50~70人の子どもが発症して、1年から2年でほぼ全員が亡くなる、最も死亡率が高い小児がんです。告知の場には妻はおらず、私1人だったのですが、心がまったくついていかず、だれもいない木陰で号泣してしまいました。泣き顔は優衣奈には絶対見せられませんから、トイレで顔を洗って、優衣奈のいる病室に戻り「大丈夫だったよ!」と笑顔で伝えて、その後に妻とこれからのことを話し合いました。

11歳の誕生日から、唯一の治療が始まった

「早く治したいから」と、放射線治療を頑張っていたころの優衣奈さん。両親と弟から、治療の頑張りをたたえる賞状が贈られました。

――病院ではどのような治療を行ったのでしょうか。

高木 がんの治療といえば手術ですが、脳幹腫瘍の摘出手術はどんな優れた脳外科医にも不可能で、抗がん剤も効果がないそうです。受けられる標準治療は、脳に放射線を当てる放射線治療のみだといわれました。あくまで一時的に症状を抑えることが目的ですが、3週間ほどかけて、十数回にわたり放射線治療を行うことになりました。

治療開始日の2月19日は、たまたま優衣奈の誕生日だったんです。もしかしたら最後の誕生日になるかもしれないと思い、その日は午前中に一時帰宅させてもらって、親せきみんなでお誕生日会をしました。介護タクシーで病院に戻って、放射線治療室に向かう優衣奈を見送るときに「頑張ってこいよ!」と声をかけたら、優衣奈がVサインをしてくれたことを覚えています。

――放射線治療後の、優衣奈さんの様子はどうでしたか。

高木 幸い、とても効果がありました。症状が表れた1月から怖いほどに急激に進行してしまい、腕や片足が動かなくなったり、口がゆがんだり、ものが二重に見えたりしていたのですが、放射線治療のおかげでそういった症状が一気になくなったんです。3月の後半には一時的に退院することができました。

最後の沖縄旅行。親はそっとトイレで泣いた

発症前の優衣奈さん。毎年の沖縄家族旅行を楽しみにしていました。

――症状が改善し、退院してからのことを教えてください。

高木 放射線治療で症状が落ち着いた場合、再び症状が出てくるまでの時期を「ハネムーン期」と言うそうです。この間に、いい思い出作りをしてくださいという意味です。この時期の優衣奈がそうでした。

退院後、優衣奈は七夕の短冊に「沖縄に旅行にいこうね♪」と書いていました。私たちの毎年の家族旅行先は、沖縄が定番でした。飛行機の気圧変化が脳圧におよぼす影響や、症状が再燃する心配もあったのですが、妻と話し合って「これが本当に最後の旅行になるかもしれないから」と決行することにしました。

優衣奈はプールに入って泳ぐこともできて、本当に楽しんでいる様子でした。ただ、私たち夫婦にとっては最後の思い出だと覚悟しての旅行です。娘の前では笑顔を絶やさずに、悲しみの波が襲ってきたときはトイレで泣きました。

――旅行から帰宅してから、検査で再燃が見つかったのですか。

高木 はい。MRI写真を見ると、優衣奈の頭の中は、まるで散弾銃で撃たれたように腫瘍が飛び散っていました。そして先生から、今後の治療方針はないと伝えられました。心臓が止まったときは蘇生や心臓マッサージはするのか、人口呼吸器はつけるのか…。そういった最期の瞬間のことを決めるように伝えられたのですが、娘はまだ普通に歩けて、しっかり話もできていました。それなのにそんな残こくな決断を今どうして親がしなければいけないのかと、とてもつらい気持ちになりました。

「だって、パパとママの子だから」と…

優衣奈さんは母親の裕美さんの言うことをよく聞いて、悩みも相談していました。

――症状が再燃してからは、在宅医療を選択されたそうです。

高木 窓際の日当たりのいいところにベッドを置いて、訪問医療と訪問看護で定期的に医師と看護師に来ていただいて、療養していました。優衣奈はハネムーン期前の最初の発症のときと同じ症状がどんどん表れて進行して、体が動きづらくなり、寝たきりになりました。

家の隣には大学があるのですが、ガラス窓1枚をへだてて、楽しそうな学生さんたちの笑い声が聞こえてきていました。ここに命と向き合っている子どもがいるなんてだれも想像していないし、外には普通の時間が流れている。そう思うと、世の中に対して大きな孤独を感じたことを覚えています。妻も、今の状況を聞かれるのが怖いからと、買い物でお友だちなどに会わないように遠いスーパーに出向くようになりました。

――優衣奈さんは、病気をどのようにとらえていたのでしょうか。

高木 体が動かなくなったり、まひした状態になって、普通ではないと感じていたと思います。優衣奈が不安と闘っているときには、「絶対にパパとママが治すから大丈夫だよ」と繰り返してきました。

優衣奈は、療養中にまったくぐちを言いませんでした。看護師さんが感心して、「なんでそんなに頑張れるの」と聞いたら「だって、パパとママの子だから」と言っていたそうです。それを看護師さんから聞いたときはグッと心に来てしまって…。親として立派なことをしていたわけじゃないんですけど、本当に、最高のほめ言葉を優衣奈にもらったと今でも思っています。

「頑張らなくていいからね」と心でつぶやいた

闘病中の優衣奈さんからのメール。まわりを気づかうやさしい子だったそうです。

――10カ月の闘病生活を経て、2013年11月に亡くなりました。

高木 天使になる数日前に、優衣奈が「人生、めちゃくちゃだ」とかぼそい声で言ったことがあります。私は「つらいことの容量は人生の中で決められている。優衣奈は11歳でそれを全部果たしたから、これからどんなことが起こってもつらいって感じないよ」と話しました。優衣奈は泣き顔になって、涙を浮かべていました。

最期は、苦しそうに呼吸が止まったり、息を吹き返したりを繰り返していました。すでに優衣奈は全力以上で頑張っていました。もう「頑張れ」とは言えず、「頑張らなくていいからね」と心の中で思いました。最期まで家族で、息を引き取るのを見届けました。

葬儀の日は、優衣奈の写真がたくさんのお花に囲まれていて、「どうして娘のお葬式をやらなきゃいけないんだろう?」と感じたことを覚えています。その日、妻が優衣奈のひつぎの前に立っていたら、足元にトルコキキョウの花のつぼみがポトッと落ちました。娘の「ありがとう」というメッセージなのかな、と夫婦で話しました。

――優衣奈さんが亡くなられて11年。ちょうど優衣奈さんが生きた年数と同じ時間が過ぎました。

高木 優衣奈と過ごした11年間は、本当に幸せでした。優衣奈が元気だったころ、家族でレストランに出かけたとき、「生活のすべてがうまくいっているわけじゃないけれど、みんなでこうして過ごせて本当に幸せだな」としみじみ感じたことを、今でも思い出します。中学生くらいまでの優衣奈の姿はまだ想像できたんですけど、それからの成長した姿は、どうしても想像できなくて…。今生きていたとしら22歳ですから、その姿が思い浮かべられないのは、とても寂しいです。

娘の闘病中に感じた、小児がん患者をめぐるいろいろな問題点を解決するために、仕事のかたわら「トルコキキョウの会」という団体を立ち上げて活動しています。私たち大人が動かないと、子どもたちは声を上げられません。親として悔しかった思いや経験をいかして、未来の子どもたちのために今の状況を少しずつでも変えていきたいと思っています。

お話・写真提供/高木伸幸さん 取材・文/武田純子、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>後編

優衣奈さんと共に生きた11年間と、それからの11年間は「ガラっと大きく変化しました」と高木さん。悲しい経験を経て病気の子どもたちに寄り添う活動を続ける様子に心を打たれます。後編では、その具体的な活動の内容や、小児がんをめぐる課題について話を聞きます。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

高木伸幸さん

PROFILE
一般社団法人「トルコキキョウの会」代表理事。2013年に長女の優衣奈さん(当時11歳)を難治性小児がん「小児脳幹部グリオーマ(DIPG)」で亡くした経験から、仕事のかたわら小児医療環境改善に関わる活動に取り組んでいる。

一般社団法人「トルコキキョウの会」ホームページ

●記事の内容は2025年2月の情報であり、現在と異なる場合があります。

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