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「ほかの子と違うかも・・・」、自閉症の長女にずっと感じていた違和感。預け先が見つからず・・・、復職にあせる日々【体験談】

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2013年、海と風が大好きな長女のために家族でフェリーに乗ったときの1枚です。多動な長女の手はしっかり握って離せませんでした。

「障がい児及び医療的ケア児を育てる親の会」という団体があります。障害児や医療的ケア児を育てながら、働き続けたい親たちが、ゆるやかにつながり、支え合っている会です。会長で朝日新聞社に勤務している工藤さほさんの長女は、自閉症で重度知的障害があります。自身が仕事と育児の両立に悩んだ経験から、同会を立ち上げました。
長女を預ける施設を見つけるのが大変だったという工藤さんに、障害がわかった当時のことを聞きました。全3回のインタビューの1回目です。

眠らない、泣きっぱなしの長女に「ほかの子とは違うかも・・・」と感じる日々

3歳ごろ、母子で私立の児童発達支援センターに毎日通っていました。音を楽しんでいました。

――工藤さんは現在、17歳の長女、15歳の二女の子育てをしながら新聞社で働いているとのこと。記者になったことや、結婚の経緯を教えてください。

工藤さん(以下敬称略) 1995年、新卒で記者職として入社しました。前橋総局、福島総局をへて、東京本社と名古屋本社で家庭面やファッション面を担当しました。記者をめざしたのは「真実を知る仕事がしたい」と思ったからです。正しいデータを集め、多角的に事実を突きつめていく作業に難しさを感じつつ、おもしろさを感じていたこともあります。

夫と出会ったのは前橋で働いているときです。2006年、33歳のときに結婚しました。子どもに恵まれますようにと夫婦の思いを込めて、入籍は5月5日の子どもの日を選びました。

――妊娠・出産について教えてください。

工藤 結婚後まもなく35歳目前で長女を出産したのですが、臨月間近で夫が東京から名古屋に異動となりました。夫の近くで出産したい、夫婦で子育てしたいという思いから、バタバタしながら名古屋で産院を探し、出産しました。産休・育休を取得しましたが、子どもが1歳になったら保育園に預け、産前から所属していた部署に、記者として復職する予定でした。

――出産後、長女の様子に気になることがあったとのことですが。

工藤 気になることはいろいろとありました。最初に心配だったのは、生まれつき頬に赤あざがあったことです。「単純性血管腫」と診断されました。生後3カ月以内にレーザー手術をしないと消えないリスクがあると説明されて・・・。こんな小さいときから手術をして大丈夫なのか、かえって赤みが強くなったらどうしようなど、心配でした。

また、股関節がはずれている「先天性右股関節脱臼」であることもわかりました。将来歩けなくなると困るので、リーメンビューゲルという装具を装着し、治療しました。

何よりもふだんの生活のなかで大変だったのは、眠ってくれないことでした。朝でも深夜でも泣きっぱなしで、ずっと抱っこしていました。私もまとまった時間眠ることができず、フラフラの毎日だったんです。
股関節脱臼の装具をつけていた生後8カ月のころは、医師の承諾を得て椅子タイプのバギーに乗せ、ひたすら歩きまわっていました。

――「この子は何かが違うかも・・・?」と感じ始めたきっかけはありますか?

工藤 地域の子育て広場に連れて行くと、ほかの子はおとなしく過ごしているのに、娘は初めての場所や屋内が苦手で号泣してばかり。屋内にいるときは抱っこしてゆらゆらと動いてあやし続けていました。おもちゃにはほとんど関心を示さず、何をしたら楽しめるのかいろいろ試しました。

私の姿が見えないと大泣きするので、片時も離れられず、ほかのお母さんたちと話をする余裕もなかったです。
離乳食が始まっても、スプーンをうまく使えませんでした。同じくらいの月齢の子がスプーンを上手に使うようになったころでも、娘はどうしたらいいのかわからないようで、ただ握っているだけで・・・。
とにかく手がかかり、「育児ってこんなに大変なんだ」と想像以上のハードさにただ、ただ驚く毎日でした。

1歳半で「6カ月ほど発達の遅れがある」と言われて

2歳で家族で水族館に行ったときの様子。大好きな水と魚などをいつまででも見ていました。ダイナミックなしぶきをあげるイルカショーがいちばんのお気に入りスポット。

――2009年、二女を授かったとか。

工藤 ずっと子どもは2人ほしいと思っていました。長女のときは不妊治療をしていましたし、二女が生まれる前には流産してしまっていて、子どもは授かりものなんだと、しみじみ思います。長女の出産の時点ですでに30代半ばになっていたので、2人目を考えるなら早めにと思っていました。そのころはまだ長女に障害があることはわかっていませんでした。でも様子は気になっていましたし、思い描いていた保育園に入れて仕事復帰がスムーズにいくとは思えない状況だとは考えていたんです。

二女を妊娠し、長女の育休から続けて二女の産休・育休に入りました。二女の妊娠でも切迫早産になりましたが、私がいないと長女が不安がります。入院は難しいと判断し、自宅でほぼ寝たきりで過ごしていました。ありがたいことに実母が私たちの住む名古屋に来て、一緒に住んでくれました。献身的なサポートのおかげで、妊娠期間を乗りきることができました。

――長女が簡単な発達検査を受けるまでのことを教えてください。

工藤 長女は1歳半で簡単な発達検査を受けることになりましたが、名古屋に住んでいるときから、乳幼児健診や保健師訪問などでも娘の様子を話し、相談していたんです。でも「赤ちゃんの個性ですよ。様子を見ましょう」と言われるばかりでした。
そのアドバイスを聞いても「本当に個性で片づけていいのかな?やっぱりほかの子とは違う気がする・・・」とずっと違和感はあり、不安なままでした。

発達検査を受けるきっかけとなったのは、股関節脱臼を治療してくれたベテランの小児科の整形外科医の助言でした。「装具を着けていたとしても1歳半を過ぎて1人で歩行しない場合は、知的障害の疑いがある」と言われたんです。そこで簡単な発達検査を受けたところ「6カ月ほど発達が遅れている」とのことでした。

――当時、工藤さんには発達障害や知的障害について知識はありましたか?

工藤 知識はまったくありませんでした。医師の言葉も意味がわかりませんでした。「6カ月程度の遅れであれば、あとから追いつくことができるのかな?」とくらいに漠然と思っていました。ただ、やっぱり心配で少しでも長女のためになることをしてあげたいとは考えていました。

育児書に「ブランコは脳の発達にいい」と書いてあれば、あまり人がいない公園に連れて行き、ずっと揺らし続けていたこともありました。

38週で二女を予定帝王切開で出産し、1カ月健診が終わった翌日に、私は母と一緒に東京の実家に戻りました。あまりにも手がかかる長女がいるうえに、生まれたばかりの二女のお世話となると、私1人では育児が不可能だと考えたんです。夫は名古屋で単身赴任することになりました。長女の育てにくさは変わらないままでした。

療育に通わせるも、長女はストレスで嘔吐するように

多動が激しく、3回まばたきをすると見失ってしまうほどでした。なるべく見渡しのきく広い平地の公園に連れて行きました。6歳ころの様子です。

――東京に戻ってきてからも育てにくさは変わらなかったとのことですが、どこかに相談することなどはありましたか?

工藤 名古屋で簡単な発達検査は受けましたが、もう少し本格的な検査を受けたほうがいいのではないかと考えました。東京に戻り私の体調が回復してきた2010年の年明けごろに、保健所に連絡して長女について相談しました。臨床心理士に見てもらえることになり、2月の日時を予約しました。

予約していた日に長女を連れて行き、様子を見てもらうと、さっと臨床心理士の表情がくもったのがわかりました。その様子は「ああ、やっぱり長女には何かあるんだな」と十分に感じられるものでした。「お母さん、娘さんにはいろいろな刺激を与えてあげて」とアドバイスをもらい、児童発達支援センターで発達検査を受けることになりました。しかし、発達検査の予約はなかなかとれず、数カ月待つことになりました。

その間、少しでも娘のためになることをしてあげたくて、モンテッソーリ幼児教育、プリスクール、シュタイナー教育、インターナショナルスクールなど、さまざまな教室を訪ねました。でもどこも断られてしまったんです。長女はまだ教室のプログラムを楽しむ発達段階ではなかったんです。

――数カ月待って受けた、児童発達支援センターでの発達検査の結果はどうでしたか?

工藤 名古屋で受けた発達検査と同様、「半年遅れの精神運動発達遅滞」と告げられました。知的な遅れがあるのではないかといろいろ調べましたが、よくわからなくて。2~3カ月後、親子で週1回、2時間ほど集団療育を受けることになりました。

発達障害は、「早期発見、早期療育」がいいと言われています。療育のサイトを見ると1日最低8時間は療育を受けると望ましい、などと書かれていました。週に2時間ではたりないとあせってしまって・・・。ようやく毎日通えるところを見つけ、積極的に行くようになりました。

でも、娘はまだ私から離れると不安になってしまい、母子分離ができていませんでした。それなのに毎日通わせた結果、嘔吐を繰り返したり、睡眠障害が悪化したりし、家族全員が寝不足になったりで悪循環におちいってしまうことになります。

これ以上娘に無理をさせると大変なことになると痛感しました。母親と離れても不安がなくなるよう、彼女のペースに合わせることが大切だと思ったんです。その後、「知的な遅れを伴う自閉症」と診断されたのは4歳のときでした。

子どもたちを育てるためにも、仕事には復帰しなくてはいけないと決意

4歳ころの様子です。音が出るおもちゃが好きで、よく遊んでいました。

――長女の産育休、二女の産育休と続けて取得できていたとのことですが、復職についてはどう考えていましたか?

工藤 子どもたちの成長をていねいにフォローしなくてはいけないと思っている一方で、「復職は絶対にしなくてはいけない」とも考えていました。なぜなら、おそらく長女はこの先一生、経済的に自立できないだろうと思ったんです。長女の将来のために何としてでも働き続けなくては!と強く認識しました。
それまで私は、仕事を「自己実現のため」、「キャリアを追求するため」のものだととらえていました。でも、娘たちが生まれて、考え方がガラリと変わりました。娘たちを育てるためには「母ちゃん、何としてでも働き続けなきゃあかん」と自覚したんです。
「仕事とは、自分のためではなく子どもを育てるための経済力を手にするためのもの」だと強く思いました。
とはいえ、復職前からゆっくり慣らし保育ができるよう、さまざまな幼稚園、認証保育所に問い合わせてみましたが、自閉症で知的障害がある長女を受け入れてくれるところはありませんでした。預かってもらえる場所が見つからないと、仕事に戻れない、会社を辞めないといけないかもしれない、とあせりが募りました。

――夫さんとはどのような話し合いをしていましたか?

工藤 夫も忙しい日々を送っていました。万が一私が復職できなかったり、何かあったりした場合、家庭の収入を夫1人で担うことになります。だから働き続けようと夫婦で話し合っていました。

――長女の預け先は見つかりましたか?

工藤 職場の先輩で福祉にくわしい人に相談したところ、評判のいい社会福祉法人の療育施設を教えてもらえました。半年待ち、自宅から車で20分ほどの療育施設に毎日通えることになったんです。長女は3歳になっていました。最初の3カ月は午前中のみの通所、その後14時まで過ごすようになりました。その施設の先生たちのおかげで、長女は少しずつ落ち着いていきました。4歳になり、長女を受け入れてくれる保育園が見つかりました。二女も復職前から認証保育園に預け、復職後は近隣の認可保育園に入ることができて。そこでようやく、職場復帰できることになったんです。

お話・写真提供/工藤さほさん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>第2回

「1人の人間として自己実現のために働きたいという気持ちももちろんあるけれど、長女の障害が判明したことで、働く意義が変わった」という言葉が印象的でした。子どもたちを育てるために、なんとしても働かなくてはいけない。でも、預ける施設が見つからないという葛藤は、障害児を育てる多くの親たちが抱く気持ちだと工藤さんは話します。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

「障がい児及び医療的ケア児を育てる親の会」のFacebook

工藤さほさん(くどうさほ)

PROFILE 
1995年朝日新聞社に入社。2012年育休明けからお客様オフィス、2019年から編集局フォトアーカイブ編集部。障害児や疾患児を育てながら働く・働きたい父母が支え合う「障がい児及び医療的ケア児を育てる親の会」会長。こども家庭審議会成育医療等分科会委員。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年3月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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