自閉症で重度知的障害の長女。多動が激しく育て方に悩み、特性を理解するまでに何度もの失敗も・・・【障害児を育てながら働く】
朝日新聞社に勤める工藤さほさんの長女は、自閉症で重度の知的障害があります。多動が激しかった長女は、寄り添い、あたたかく見守ってくれる人たちのおかげで少しずつ成長したそうです。2016年、工藤さんは勤務先の朝日新聞社で「障がい児及び医療的ケア児を育てる親の会」を発足させました。工藤さんも周囲の人の助けを得て、復職することができました。でもそこには大変な苦労が・・・。
全3回のインタビューの2回目です。
3歳で療育施設に通い始め、ママと離れる時間が増えていく
――工藤さんの長女は重度の知的障害をともなう自閉症とのことです。2011年4月から、3歳で療育施設に通い始めたとのことですが、当時の様子を教えてください。
工藤さん(以下敬称略) 娘は多動が激しく、まばたきを3回すると見失ってしまうほどでした。戸じまりには気をつけていましたが、朝、出かけるしたくをしている際、少し目を離しただけで玄関から飛び出し、警察に探してもらったこともあります。
3歳で療育施設に通い始めた当初、まだ母子分離ができていなくて、私の姿が見えないと不安で嘔吐するほど大泣きをしていました。それが療育施設の主任の先生が全力で向き合ってくれたおかげで、少しずつ私と離れられるようになったんです。主任の先生は、娘はもちろん、母親である私も真剣に指導してくれました。
それまでの私は、娘の特性について頭では理解していたものの、本当の意味でわかってはいなかったと思います。先生に根気強く指導してもらったおかげで、ようやく私は母親になれたのではないかと感じています。
――療育施設で印象的だったエピソードはありますか?
工藤 療育施設に通い始めて数カ月たったころ、少しずつ娘は1人で過ごせる時間が増えていきました。それまでほぼ1日中一緒だった私は、ようやく1人の時間を得られ、とてもうれしかったんです。
ある日、お迎えの時間に5分くらい遅れてしまいました。そのとき、先生に「娘さんのような子にとっての5分は、大人の感覚の5分ではありません。とてつもない長い時間です。時間はかならず守ってください」と本気でしかられました。
先生にしかってもらって本当によかったです。「自閉症の子にとって、時間を守るのはとても大切なこと」と、学べたからです。娘は時間の感覚にとても敏感です。1分でも遅れると不安になってしまうんです。決まった時間にお迎えに行くことは、母子で信頼関係を築くために大切なことだと知りました。
療育施設に通えたことは大きな前進でした。最初は午前中だけ預け、少しずつ延長して14時にお迎えに行くようになりました。とはいえ、仕事への復職を考えると、短時間勤務にするとしても退社時間は17時くらいになります。インクルーシブな保育園との併用が必要でした。娘が専門家から毎日受けられる療育の機会もあきらめたくなくて、復職前の1年間は療育施設から保育園につれて行ってくださるヘルパーさんを探す日々に明け暮れました。
退職して、ずっと娘の面倒を見る選択肢もあったかもしれません。でも娘は将来、経済的に自立するのが難しいでしょう。そのことを考えると、親が働ける間に、少しでもお金を得ておくことはとても重要なことです。なんとしても復職しなくてはと考えていました。
幸運なことに、療育施設と同じ社会福祉法人が開設した認可保育園に、4歳から通えることになりました。その法人では障害児の施設も保育園も運営していました。勤務する保育士たちはさまざまな経験を積んでいるとのことでした。娘にとって最適な育ちの場を見つけることができたことで、ようやく復職することになりました。
復職後、異動先の所属長は元特別支援学校の教諭
――仕事復帰後のスケジュールはどんな様子でしたか?
工藤 短時間勤務でスタートしました。娘を療育施設に預けてから11時に出社し、17時に退社して18時には帰宅します。娘は10時から給食までは療育施設で過ごし、ヘルパーさんと一緒に保育園に通いました。17時に祖父やシッターさんがお迎えに行く、と毎日同じ生活リズムを心がけていました。
このルーティンはだれかが体調を崩したり、予定変更があったりしたら、それだけで仕事に影響があります。毎日ちゃんと過ごせるか、綱渡りの毎日でした。
――職場では、育児について相談する人はいましたか?
工藤 産休前に所属していた部署の部長は、私が復職する前から状況をこまやかに聞き取り、いろいろと配慮してくれました。育児と両立しやすいよう、残業や出張のない部署に異動させてくれたんです。
さらに驚いたことに、配属先の所属長が元特別支援学校の先生でした。所属長は私以上に娘の発達について深く理解し、寄り添ってくれました。「この先、大丈夫だろうか」と不安でいっぱいなときも「そういう時期だから大丈夫。いまは娘さんのそばにいてあげて」と言ってくれました。どれだけ支えられたか、言葉にできないほどです。
3歳から小学校探しを開始し、娘に寄り添ってくれる学校を見つける
――保育園探しと同時に、小学校探しも始めたと聞きました。早い段階で小学校を探したのはなぜでしょうか?
工藤 娘が2~3歳のころ、療育施設探しのため、ある社会福祉法人を訪れました。すると臨床心理士から「娘さんのように特性のある子に合った学校を選ぶのには3年はかかると覚悟したほうがいい」とアドバイスされたんです。
臨床心理士が言うには「学校探し1年目は、可能な限りたくさんの学校を見て回ること、2年目は娘の育ちに合わせ、現実的な部分も考慮しながら候補を絞っていくこと、3年目はしっかりと現実と向き合い、最適な学びの場を決めること」とのことでした。その助言を受け、私は育休中から学校を探し始めました。復職前に探し始めて正解でした。学校見学はたいていの場合、平日に行われます。仕事に復帰していると、有給休暇を使う必要がありました。復職してからは余裕がないだろうと思ったんです。
実際に見学することで、娘に合う学校かどうかが雰囲気でわかるようになっていきました。公立小学校にある特別支援学級や、公立の特別支援学校は、だいたいどこもカリキュラムが一緒でした。多動が激しく、じっと座っているのが苦手で、環境の変化に敏感な娘にはハードルが高いように感じました。
娘に合う学校を見つけたのは、娘が3歳のときです。通常であれば就学前に行われる教育委員会の就学相談を待たずに、3歳で訪ねると、娘の様子を見た職員は「娘さんにぴったりの学校があります」と、ある私立特別支援学校を紹介してくれました。
見学に行ったところ、ひと目で気に入りました。その学校は子どもたちが、教室でも廊下でも、校庭でも好きな場所でのびのびと好きなことに取り組んでいるのがわかりました。ある教室にはたくさんの電化製品や昆虫の入った虫かごがずらりと置いてあって。電化製品を好きな子が自由に組み立てたり、虫好きな子が虫を集めたり育てたりしているとのことでした。
娘は机に座って授業を受ける発達段階にありませんでした。初めてが苦手な娘が、体験で連れて行った私立特別支援学校愛育学園(幼稚部・小学部のみ)だけは、すーっと溶け込んで、泣きもせず、夢中で遊び、帰りたがりませんでした。一人ひとりに寄り添ってくれるこの学校だったら、安心して過ごせるに違いないと思いました。子どもたちの好きなことを大切にし、伸ばしてくれるこの学校で娘も大きく成長してくれるだろうと確信できたのです。実際、小学校入学後の娘はできることがたくさん増えました。
――学校ではどんなことができるようになりましたか?
工藤 娘は傘を開けたり閉じたりする動作ができませんでした。小さいころから長い棒が好きで、3年生のころには、学校にあった傘がお気に入りになっていました。毎日、ステッキのように持ち歩いていたんです。
学校には企業から寄付された傘がたくさんありました。しだいに娘は次々と傘を広げ、校庭に並べるようになりました。楽しそうな娘を、先生たちは「まるで校庭に傘のお花が咲いたよう」と、ニコニコしながら見守ってくれ、その様子を後日私に教えてくださいました。
こうした遊びを繰り返すうちに、自然と傘の開け閉めができるようになりました。今、17歳になり、長時間は無理ですが、傘をさすことができるようになっています。
また、自転車のペダルをこげるようにもなりました。娘はずっとペダルを逆方向にこいでしまっていて・・・。以前、作業療法に通っていたころ、療育の先生から「ペダルを前に踏みこむ動作は高度であり、おそらく一生無理だろう」と言われていたんです。
校庭には、さまざまな種類の乗り物が用意されていました。娘は補助輪がない、ごく一般的な大人用の自転車が気に入ったようでした。毎日のように乗りたがる姿を見て、担任の先生が毎朝一緒に学校の周囲をまわってくれたんです。娘はサドルに座り、先生は後ろの荷台に乗り、一緒にハンドルを握ってくれました。娘の足をペダルに載せ、先生は自転車が倒れないよう足で踏ん張りつつ、ペダルのこぎ方を教えてくれたんです。
本当に根気がいったと思いますが、気づいたら娘はペダルをこげるようになっていました。
――子どもの可能性を信じて、伸ばしてくれる学校だったのですね。
工藤 先生方の熱心な指導には感謝でいっぱいです。愛育学園を卒業した年、ちょうどコロナによる一斉休校になってしまったんです。娘は小学校を卒業したことを理解できなかったうえ、日常生活がガラリと変わったことに混乱してしまいました。よく「あいいくいく」と言っていました。学校に行くと、校長先生がいるときはコロナ下にもかかわらずガランとした校内に迎えてくれました。柔軟な配慮のおかげで、娘も少しずつ折り合いをつけることができたと思います。
たくさんの人に寄り添ってもらったおかげで、長女は自立の道を歩み始める
――愛育学園の先生たちから学んだことはありますか?
工藤 あるとき先生に「この子は今後、どのように成長していくと思いますか?」と質問したことがあります。当時の娘は多動が激しく、睡眠障害もあり、夜も安定して眠ることができませんでした。おむつもはずれない娘の将来が不安でたまらなかったんです。
先生の答えは「きっときちょう面で時間を守る子になるでしょう。おむつもいずれはずれると思います」とのことでした。周囲で聞いていたほかの先生も「きっとそうでしょうね」と、うなずいていたんです。まったくの予想外の言葉で「本当にそうなるの?」と驚きました。
でも、現在17歳になった娘は、先生の予想どおりに育っています。中学部に進学してから、日中はおむつもはずれました。きっと経験豊かな先生たちは、娘の本質を見抜いてくれていたんだと思います。先生たちに見守られ、娘は大きく成長してくれました。私も先生たちがとても大きな支えでした。
――先生方の言葉やアドバイスで印象的だったものはありますか?
工藤 「これからはお子さんの意見をよく聞き、親子で話し合って物事を決めていってください」と、卒業に贈る言葉としていただきました。娘は自分の気持ちをうまく言葉にできません。それでも、彼女なりの意思を尊重することが大切だと教えてくれました。トイレに連れていくのも、つい親の都合に合わせてしまいがちでしたが、ちゃんと子どものタイミングに合わせるのが本来の姿だったのだと思います。娘の気持ちを尊重すると、彼女はすっとおだやかになり、心が満たされた表情になります。私や本人の服装なども一緒に相談しあってコーディネートを選ぶとうれしそうです。
障害児・障害者は、人生のかじ取りを自分で行うことが難しい場合が少なくありません。それは当事者の心身をむしばんでいくことになります。娘が何かを自分自身で判断し、その結果、みずからが責任を負うことになっても、その経験はとても貴重なものです。親も寄り添うことで、成長していくのだと学びました。
お話・写真提供/工藤さほさん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部
娘さんの成長を見守ってくれる学校のおかげで、できることが少しずつ増えていった様子が伝わってきます。成長した姿も予想する経験豊かな教師たちは、本当に愛情をもち娘さんと向き合ってくれたのだと思います。それでも工藤さんが経験した、障害児を育てながら仕事をするというのは困難なことが多いのではないでしょうか。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
工藤さほさん(くどうさほ)
PROFILE
1995年朝日新聞社に入社。2012年育休明けからお客様オフィス、2019年から編集局フォトアーカイブ編集部。障がい児や疾患児を育てながら働く・働きたい父母が支え合う「障がい児及び医療的ケア児を育てる親の会」会長。こども家庭審議会成育医療等分科会委員。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年3月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。