4歳で骨肉腫になった息子。病気の影響で左右の腕の長さは20㎝くらい差が。目標は卓球で金メダル!1日1日を大切に生きたい【小児がん・骨肉腫】
毎年9月は世界小児がん啓発月間です。
舟山真弘(まひろ)さん(21歳・大学3年生)は4歳のとき、右上腕骨骨肉腫(みぎじょうわんこつこつにくしゅ)と診断され、抗がん剤治療と15時間の大手術を受けました。1年2カ月の入院期間中、母親の玲子さんは、ほぼ帰宅せず病院に泊まり込みました。
現在早稲田大学卓球部に所属し、2028年のロサンゼルスパラリンピックでの金メダルを目標にしている真弘さんは、2025年4月に行われた「ゴールドリボンウオーキング2025」で、自身の闘病体験を話しています。
玲子さんに聞いたインタビューの後編です。
ICUを出たあと、生後8カ月くらいの赤ちゃんに退行してしまい・・・
真弘さんの骨肉腫は、肩関節から右ひじの手前まで及び、上腕の筋肉全体に広がっていました。
「手術をしたのは2009年1月下旬のこと。朝8時半に手術室に入り、出てきたのは15時間後でした。右腕の肩関節と上腕骨を切除し、右脚の腓骨(ひこつ)を移植して、ひじから先の右手をつなぎ残すという、とても難しい手術でした。真弘のような骨肉腫の症状の場合、肩から切断するのが第1に選択する手術法であると説明を受けながら、主治医は腕と手のひらを残す治療を選択してくれたんです。
でも、手術中の状況によっては命を守ることを最優先とし、肩から切断する可能性もあると告げられていました。その覚悟もしていましたが、腕が残りますように、うまくいきますようにと、15時間祈り続けました」(玲子さん)
玲子さんの願いがかない、真弘さんは腕を残すことができました。
「喜んだのもつかの間、麻酔から覚めたあとの真弘は呼吸がうまくできず、心臓肥大を起こしていて、集中治療室(ICU)に入ることになりました。
1週間後にようやく自発呼吸がしっかりできるようになり、人工呼吸器がはずせて、病棟に戻れたのですが、真弘は集中治療後症候群(PICS)になってしまったんです」(玲子さん)
PICSはICU在室中または退室後に起こる身体・認知機能・精神の障害などのことです。
「真弘には退行現象が起こりました。言葉は『あー』『うー』くらいしか言えなくなり、そのころおむつははずれていたのですが、自分の意志でおしっこを出せなくなってしまっていました。真弘の様子をみた先生は、『生後8カ月ごろの状態まで戻っている』と言いました。そして、先生が8カ月ごろの赤ちゃんが喜びそうなガラガラを真弘に見せると、興味を示すんです。4歳の息子が0歳代のような反応を示して遊んでいました。真弘はどうなっちゃったんだろうと、不安でしかたがありませんでした」(玲子さん)
そんな真弘くんの姿を見て、玲子さんにはシリアスな疑惑が浮かびました。
「腫瘍が脳に転移したのではって思ったんです。先生方は脳への転移の可能性も考えたけれど、それ以上に脳症の可能性を考えたそうです。いずれにしろ脳の検査が必要ということで、MRI検査を受けました。結果か出るまでは、とっても怖かったです。『転移していたら次はどんな治療が必要になるのだろうか、治療はできるのだろうか・・・』と。
結果、脳に異常はないと言われ、ほっとしました。退行現象は徐々によくなり、ICUを出て3週間後には手術前の真弘に戻ってくれました」(玲子さん)
利き手が使えず不便でイライラするも、徐々になんでも左手でできるように
そのほかにも、さまざまな困難がありました。
「手術後は右腕を上げられなくなりました。入院中は右腕をがっちり固定されて動かせない状態だったので、本人は腕が上がらないことに気づいていませんでしたが。当時4歳の真弘は右が利き手になっていたので、左手でスプーン・フォークをうまく使えず、食事のたびにイライラしていました。
でも、徐々に左手でなんでもできるようになりました。その様子を見て、子どもの順応力はすごい!と感心しました。 文字は最初から左手で書いたので、その点の苦労はありませんでした」(玲子さん)
右脚の腓骨を右腕に移植したため、手術直後は歩くことができず、リハビリが必要でした。
「腓骨を取っても歩けると、手術前に医師から聞きましたが、右手が不自由になるうえ、歩けなくなってしまうのではないかと、とても心配しました。
入院中に右脚用の装具を作り、歩くためのリハビリを毎日行いました。リハビリは痛くてつらいというイメージがありましたが、真弘はリハビリが楽しみだと言うんです。
入院生活は変化がないから、いい刺激になっていたのかも。頑張ったかいがあって、入院中に歩けるようになりました!」(玲子さん)
1年2カ月間ほぼ長男に会えない。「夢にママが出てこない」と泣かれてしまう
真弘さんが入院していた1年2カ月の間、玲子さんが自宅に戻ったのは、ほんの数日だけでした。
「入院の付き添いはまさにサバイバル生活。寝るのは真弘のベッドの横に置いた簡易ベッドで、真弘の容態が悪いときは、トイレに行くのもままならないほどつきっきりで看病しました。
真弘の調子がいいときは外に買い物にも行けますが、抗がん剤の影響で白血球の数値が下がっているときは、感染症予防のため病院内の売店にも行けません。カップラーメンやレトルト食品を大量にストックしてそれを食べてしのぎました。
おふろは小児病棟のシャワーを1回10分だけ使わせてもらえました。夕方になると付き添いのママたちが順番に入るんです。シャワー室にいる間は、同室のママ同士で子どもの様子を見守り合いました」(玲子さん)
消灯後も熟睡するのは無理だったと言います。
「1時間ごとに点滴ポンプのアラームが鳴るしくみになっていて、看護師さんが確認にやって来ます。そのたびに目が覚めるから、1度に眠れるのは40分程度でした。
入院期間中1度だけ具合が悪くなり、2日間付き添いを夫に代わってもらったことがあります」(玲子さん)
入院付き添い中、長男とは会えません。
「当時、院内での携帯電話の使用は禁止で、今のように簡単に動画を撮って送ることもできません。病院の公衆電話から自宅に電話したとき、母から長男が「ママに会いたい」と言って泣いていると聞きました。私も長男に会いたい。でも家に帰ることはできない・・・。だから電話口で長男に『家にまだしばらく帰れないから夢で会おうね』って言ったんです。
ところが数日後に電話したとき、『夢にママが出てこない』って長男に泣かれちゃって。かえってつらい思いをさせてしまったと、私も悲しくてつらくて一緒に泣いてしまいました」(玲子さん)
右腕を守るために、幼稚園では常に息子の右側にいる。小学校も毎日付き添う
2010年11月に真弘さんは退院します。
「退院前の説明では、まず『予後が悪いのは今も変わらない』と言われました。『もしも再発して入院したら、もう病院から出られないかもしれないから、好きなことをたくさんさせてあげてください』とも言われ、決して安心できる状態ではなかったんです」(玲子さん)
抗がん剤治療の影響も出ていました。
「退院時の聴力検査で、高音域が聞こえにくいことがわかりました。抗がん剤の影響が聴力に出ることは治療前に聞いていて、症状が重い場合は体温計のピピピッという音が聞こえなくなるとも言われていました。幸い、真弘の難聴は生活に支障のないレベルでした。
血液検査では、腎臓の数値があまりよくなかったけれど、これも日常生活には問題ないレベルでした。
退院直後は毎月、整形外科と小児科に検査で通院していました。また、抗がん剤の影響を調べるために、心臓の検査は3年に1度行うことになりましたが、21歳の今に至るまでトラブルはありません」(玲子さん)
退院後も玲子さんが真弘さんに付き添う日々は続きます。
「右腕に移植した腓骨は直径3~4ミリしかないので、ぶつかる、転ぶ、右腕を引っ張られるなどの衝撃で簡単に骨折すると言われました。せっかく残せた右腕を守らなければ!と私は必死でした。退院して1カ月後に幼稚園に復帰したのですが、常に真弘の右側にいてガードしていました。
小学校入学後も、学校から終日の付き添いを要望され、真弘が学校にいる間は常に教室の後ろに控えることに。必要なときだけ付き添えばOKになったのは、2年生の9月ごろでした」(玲子さん)
夢を1つずつかなえていく息子。今の目標はパラリンピックでの金メダル獲得
真弘さんが卓球に出合ったのは小学校2年生のときでした。
「真弘の再発の危険におびえながらも、家族の時間を増やそうとしていたころ、家族旅行で行った熱海の温泉旅館に卓球台がありました。真弘と卓球との出合いです。
息子たちが声をそろえて『やりたい!』って。2人で楽しそうに球を打ち合う姿を見て、卓球は人とぶつかることなく、腕の障害がある真弘でも安全に楽しめるスポーツなんだって気づきました。
真弘本人もそう感じたようで、帰宅後、『卓球を習いたい』と言い出しました。でも、近所に卓球教室が見つからず、卓球をするために、年に1、2回熱海に行っていました」(玲子さん)
小学校5年生のとき卓球教室に通っている子と同級生になり、入会できる卓球教室を知りました。これが真弘さんの本格的な卓球人生のスタートとなりました。
「練習後に家でも壁打ちをするほど、卓球に没頭。6年生のときに埼玉県のパラ卓球強化指定選手に選ばれ、中学、高校は卓球と勉強しかしていないと言っていいくらいの学生生活を送りました。
6年生のとき、早稲田大学卓球部出身のパラ卓球選手に会ったことがきっかけで、『早稲田大学の卓球部に入る!』が真弘の目標になりました。その後は勉強もとっても頑張り、早稲田大学の付属高校に入学。今は早稲田大学卓球部に所属しています。真弘は自分の描いた夢を、自分の力でひとつひとつ実現してきたんです」(玲子さん)
真弘さんは2024年のパリパラリンピックでシングルス5位に入賞しました。
「夫、長男とパリに応援に行きました。パラリンピックの出場は、真弘が6年生のときに掲げた目標。ここまでこられた真弘はすごい!と感動しました。
実は手術の後遺症で、真弘の左右の腕の長さは20㎝くらい差があります。移植した腓骨が成長せず、4歳のときの長さのままだからです。ほかの骨はどんどん成長していくから、中学生のときには長さの差がはっきりわかりました。
また、右の肩関節がなく右腕はぶら下がっている状態なので、右腕が意思に反する動きをすることがあります。日常生活はなんとかなりますが、卓球のプレイ中は支障が出ないように、装具を着けて右腕を固定しています」(玲子さん)
真弘さんは今、2028年のロサンゼルスパラリンピックを目指しています。
「目標は金メダルの獲得。そのために、かなりのハードスケジュールで練習と遠征をこなしています。また、就活の時期でもあるので、アスリート雇用をしてくれる会社を探す活動もしているようです。真弘はこれからも自分の力で人生を切りひらいていくでしょう。私はその姿を見守り続けていきたいと思っています」(玲子さん)
【真弘さんより】腕の長さの差によるバランスの悪さはトレーニングでカバー
初めて卓球をしたときのワクワク感は今でもはっきり覚えています。相手と接触するスポーツではないため、自分に制限をかけることなくできるのが、とてもうれしかったです。
卓球の実力が上がり、動きがダイナミックになるにつれ、腕の長さの左右差によるバランスの悪さを感じるようになりました。トレーニングなどで少しずつ改善を試みています。
今も日大板橋病院の小児がん長期フォローアップ外来で、年1回血液検査を行い、数年に1回心臓や内臓の検査をしています。病気などの早期発見に重要なことですし、小さいころから通っている病院に定期的に通うことができるのは、安心感があります。
ロサンゼルスパラリンピックでは必ず金メダルを獲得できるように、1日1日を大切に生きていきたいと思います。
【平井先生より】小児がん経験者が治療後の長い人生を健康に生きていくために、長期フォローアップは欠かせません
骨肉腫に限らず、小児がん経験者にとって長期フォローアップをしていくことは、治療後の長い人生を健康に生きるためにとても重要です。というのも、小児がんの治療後、長い年月を経て「晩期合併症」が出現してくる可能性があるからです。
晩期合併症とは、治療から数年~数十年経過した後に、体に治療の影響が出ることを言います。治療後の外来診療では再発の有無を診ていきますが、治療後5年以降は再発の有無よりも、晩期合併症の有無に重点を置いて診ていきます。骨肉腫で使われる抗がん剤は、腎機能障害、聴力障害、心機能障害、性腺機能障害、肝機能障害、神経障害、二次がんなど、さまざまな晩期合併症が出現する可能性があるので、治療終了後も長期フォローアップ外来で定期的な診察と検査を受けていくことが大切です。
お話・写真提供/舟山玲子さん・真弘さん 写真提供/小中村政一・国際卓球連盟・Butterfly 監修/平井麻衣子先生 取材協力/公益財団法人ゴールドリボン・ネットワーク 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
残すことができた右腕を守るために、玲子さんは幼稚園、小学校も真弘さんに付き添い続けました。真弘さんの腕は、成長とともに右と左の長さに差が出るようになりましたが、それに負けず、卓球で実力をつけてきた真弘さん。2028年のロサンゼルスパラリンピックでの金メダルを目指し、地道な練習と健康管理を続けているそうです。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
舟山真弘さん(ふなやままひろ)
PROFILE
2004年7月生まれ(21歳・大学3年生)。4歳のとき小児がんの一種「右上腕骨骨肉腫」となり、右腕の肩関節と上腕骨を切除し、足の細い骨を移植。小学校2年生のとき熱海の旅館で卓球と出合い、6年生のときに埼玉県のパラ卓球強化指定選手に。現在は早稲田大学卓球部に所属。2024年パリパラリンピック男子シングルス5位入賞。2028年ロサンゼルスパラリンピックでの金メダル獲得を目指している。
平井麻衣子先生(ひらいまいこ)
PROFILE
日本大学医学部卒業。医学博士。赤羽中央総合病院小児科 部長。日本大学医学部附属板橋病院小児科 兼任講師・臨床准教授。専門分野は小児血液腫瘍、一般小児。小児科学会専門医・指導医。小児血液がん専門医・指導医。日本血液学会専門医・指導医。がん治療認定医。造血細胞移植認定医。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年9月の情報であり、現在と異なる場合があります。