妊娠中、指摘された首のうしろのむくみと体の小ささ。「短命と言われても、娘の命を信じたい」【13トリソミー体験談】
東京都在住の友岡宏江さんは、長女の壽音(じゅの)ちゃんと2人暮らしのシングルマザー。じゅのちゃんは13トリソミー(パトー症候群)という先天的な染色体異常症を患っています。
友岡さんは「娘の命をつなぎたい」という思いで、懸命に育児をしてきました。そんな中で、医療的ケア児のためのサービスがきわめて少ないと感じ、重症心身障害児のための施設の立ち上げを決意。現在NPO法人Ohana kids(オハナキッズ)の代表を務めています。
今回は、じゅのちゃんが生まれた当時のことや、これまでの育児生活を友岡さんに振り返ってもらいました。全2回のインタビューの前編です。
妊娠中に判明した異変、そして出産。生まれたわが子は「13トリソミー」だった
今から約16年前、妊娠時はインドネシアに住んでいたという友岡さん。日本での出産を予定していたため、隔月で妊婦健診のため日本に一時帰国をして、それからまた海外に戻る、という生活を繰り返していたそう。ところが妊娠22週の健診時にそのまま日本で緊急入院する事態に。
「実は、妊娠12週の妊婦健診でNT検査(胎児の首のうしろのむくみ測定)をした際、医師から『少しむくみが気になる』との指摘が。ただ、当時の健診ではリスクが高いと判断されたわけではなく、ほとんどが自然に消失していくと聞いて、そこまで気にしていませんでした。
それが突然、妊娠22週の健診時に『赤ちゃんの身体が標準よりもとても小さくて、心臓にも何かしらの疾患がありそうだから、今から入院の準備をして、安静にして治療したほうがいい』と医師に伝えられ、翌日から入院をすることに。一時帰国のつもりでしたが、もうそのままインドネシアに戻ることはありませんでした。
それから約2カ月の間、なるべく私は体を動かさず、赤ちゃんに栄養がいくように、少しでも赤ちゃんの体が大きくなるようにと、ベッド上で安静にして過ごしていました。ところが妊娠32週のとき、赤ちゃんに心拍の乱れが見られたので、そのまま翌日に帝王切開で緊急出産となりました。
早産のため、娘の誕生時の体重は約1000g。助産師さんが私の肩にちょこんと赤ちゃんを一瞬のせてくれくれただけで、またすぐにNICU(新生児集中治療室)に連れて行かれ、保育器の中で様子を見てもらうことに。娘は呼吸管理をされながら、さまざまな検査を受けていきました。
出産直後は、とくに医師から娘の病気に関するような説明はされませんでしたが、入院していた病室で『障害を持ったお子さんの成長記録のアルバムがあるんだけど、ちょっと見てみる?』と助産師さんに勧めてもらったことがあって。まわりのママたちにはそういう声かけがなかったので、『娘にはもしかしたら何かしらの基礎疾患があるんだろうな』と予測していました…。
案の定、生後2週間になったころに医師から告げられたのは、娘に障害があること。その名が、13トリソミーだったんです」(友岡さん)
「短命」という言葉に戸惑いながらも、娘の生命力を信じて歩み始めた
13トリソミーは体の中にある23組の染色体のうち、13番目の染色体が変異することで起きる障害。本来2本で1対の染色体が3本になり、胎児の発育や健康にさまざまな影響を及ぼすとされています。その症状は人によって異なるそうですが、主に心臓病、発作、脳の形成異常、特徴的な顔立ちなどが挙げられ、1歳を迎えられる確率は10%未満とも言われる、非常に予後が厳しいものです。
友岡さんも、医師から最初に「この障害は予後不良で短命」という言葉を告げられ、衝撃的だったと言います。
「言われた瞬間は言葉を失いましたが、そのあと思わず『短命というのは、どうやって亡くなることが多いんですか?』と聞いてしまいました。先生は少し表情を変えて『多臓器不全や、体がついていけなくなったとき、あとは感染症が原因の場合が多い』と説明してくれました。
診察室を出てから、『短命』というキーワードが頭に残って…。『この子は、とても大きな障害を持って生まれてきたんだ』と、強い衝撃を受けたような感覚でした。自宅に戻って調べてもやはり同様の情報が出てくるばかり…。その現実を知って、三日三晩、泣きじゃくった記憶があります。
それでも、出産後すぐ助産師さんが娘を肩のあたりにちょこんと乗せてくれたときに『あれ、この子、意外と力があるな』『生きたいって思っているんじゃないかな』と感じたことを思い出して。小さな声だけど、しっかりと泣いてくれた。その一瞬の声が、ずっと頭の中で反すうしていた。その経験のおかげで、『とりあえず涙はいったん置いておこう』『この子の生命力を信じて一緒に生きていきたい』という方向にスッと気持ちが変わっていったのを覚えています。
その後、生後1カ月のこと。赤ちゃんがママに抱っこされて肌と肌でふれあう“カンガルーケア”をしてもらえることに。それまで、娘はずっと保育器の中にいたので、触れられるとしてもちょんっと指先でさわるくらい。母乳も看護師さんがシリンジで少しずつ入れてくれていたので、直接自分で触れ合う機会がほとんどなかったんです。
カンガルーケアでようやく初めて娘を抱っこできた。そのとき、『あ、ここにいる。抱っこしている。心音も聞こえる。この子はちゃんと生きているんだ』とすごく実感して。娘の肌の温かさや、やわらかさ、赤ちゃんのにおい、全部含めて『私、やっとママになれたんだ』と思えた瞬間でした」(友岡さん)
13トリソミーで1歳を迎えられる確率は10%未満と言われてきましたが、適切な医療や栄養管理や適切なタイミングの手術など、医療が発達したことで、以前よりも生きられる確率は増えてきているそう。じゅのちゃんも、15年間で心臓の手術だけでも3回受けたんだとか。
「娘は生まれつき心臓の壁がなく、成長とともに命に危険な形になってしまうので、4つの心室に分ける必要がありました。その手術を、生後3カ月、1歳、5歳のタイミングで受けました。
生後3カ月の術後にやっと娘は保育器を出ることができ、一般的なコットに乗って、好きなときに抱っこができるようになりました。『やっと自由になったね』と、すごく幸せに感じたのを覚えています。そしてそのころにはもう『この子と一緒に生きていく』いう土台が私の中ですっかりできあがっていました」(友岡さん)
私のせいで娘の呼吸が止まってしまったら…。重圧の中で過ごした5年間
じゅのちゃんと生きていくという強い意志を固めた友岡さんは、そのあともハイリスクな手術と向き合ってきました。
「5歳のときの手術では、『相当ハイリスク』『成功事例がほとんどない』と医師から言われましたが、娘の命をつなぎたいという一心で『リスクがあるとしても手術を受けたい』とお願いしました。そこから1年くらいかけて、担当医と一緒に手術のガイドラインに合致しているかをていねいに確認したり、血管手術の成功例などを調べたりして。『じゅのちゃんだったら、いけるかもしれないね』と医師から快諾いただいたタイミングで手術を受け、無事成功することができました。そのとき、ようやく安堵(あんど)できたのを覚えています。
というのも、それまでの日々は“自分の腕の中に、1人の子どもの命がかかっている”というプレッシャーを常に抱えていました。
13トリソミーの症状として『無呼吸発作』があります。その発作は一般的にイメージされるものとは異なり、“息を止めて呼吸を抑制する”発作です。発作が起こると、健康な人であれば99%前後ある血中酸素濃度が40%程度まで一気に低下。全身真っ黒になり、身体はまったく動かない状態に…。表現として適切ではありませんが、亡くなる直前の状態に非常に近いと感じるほど…。
そのため発作が起きるとすぐに心肺蘇生を行ったり、酸素投与や気道確保をしたり、いわば『蘇生処置』を、素人の私が日常的にしなければならなかった。
発作は24時間どのタイミングでも突然起り得ることだったで、娘から目が離せません。娘の少しの変化に気づけるように、目と耳だけでなく、日常的に五感すべてを使って、全身のアンテナを張りめぐらせて…ずっと気を張っていました。そして、泣いたときに多く起こる特徴もありました。赤ちゃんの“泣く”という大切なコミュニケーションである要求活動をなるべく控えさせる必要がありました。
『私がすぐに処置をしないと、娘の呼吸が止まってしまうかもしれない…』と、四六時中その重圧の中での生活が数年続いていたんです…。そのころがいちばん精神的にも体力的にも大変だったかもしれません。
そんな状況は、5歳時の手術の成功により、ずいぶんと改善されました。小学生になるころには、ある程度体力もついてきて、“息を止めるような発作”も、消失したと言っていいぐらい、ほとんどなくなりました。私も、娘が動く音や息づかいなどで、娘の体調がわかるようになって。なので、以前のようにつきっきりで娘の側でプレッシャーを感じるというのは、今はありません」(友岡さん)
娘とともに念願だった海外へ!制限の中でも経験を重ねた日々
じゅのちゃんは特別支援学校に通うようになると、「自立活動」という身体を動かす取り組みを、毎日続けることに。座ったり、自分で移動したり、そういうことも上手にできるようになってきたそう。ただ、立位は難しく、歩行器を使うと少しだけ歩けますが、基本的に全介助で、移動は車いすです。
それでも「健常発達の子どもと同じように、いろいろな経験をさせて、たくさんの発達刺激を届けたい」という思いで、友岡さんは育児を続けてきました。
「電車にも日常的に乗りますし、行きたい場所にもできるだけ出かけました。生まれてから3年半かかりましたが、両親がいる福岡まで飛行機に乗せて帰省もしました。
ほかにも娘を産んでから15年の間にたくさんの経験がありましたが、近年でいちばん心に残っているのは、2024年の夏、私が出産前に住んでいたインドネシアへ娘と一緒に行ったことです。
向こうに住んでいる友人や、一緒に働いていた同僚たちとは、緊急入院以降、離ればなれに。写真やSNSを通して娘の存在や姿は知っていたけれど、実際に会うのは私自身も16年ぶり。それでも、とても感激してくれて。滞在中はずっと一緒に観光につき合ってくれたり、16年分の話をたくさんしたりしました。海外へ行くのはいろいろ準備が大変でしたが、もしものときに備えて準備を重ねたおかげで、トラブルなく行って帰ってくることができました。
私がひとり親ということもあり、娘が生まれてから生活スタイルや経済面が大きく変わったように見られて、まわりから『大変だね』『人生、変わっちゃったね』という言葉をかけられることもありました。それは慰めのつもりだったと思いますが、当時の私の精神状態では、どこか否定されたように感じて、ショックを受けることもありました。
それでも、心のどこかで『いつか胸を張って、大切な人たちと会える日が来るはず』と、自分に言い聞かせて踏ん張ってきた。15年かけて育児に関しても仕事に関しても、ひとつひとつ不安を取り払ってきた。その中で、福岡への帰省やインドネシア旅行を通して、“娘と一緒に、正々堂々と里帰りができた”という感覚がありました。
私自身の満足感もとても大きかったですし、子どもにとっても、かけがえのない体験になったんじゃないかな、幸せな体験ができたな、と思っています」(友岡さん)
重い障害があっても変わらない、「本人の意思を尊重する」子育てを
じゅのちゃんには身体障害に加え、最重度の知的障害もありますが、“子育てで大切にすることは健常のママやパパと変わらない”と話してくれた友岡さん。
「娘には知的障害もありますが、喜怒哀楽の表情はとても豊かで、呼ばれたときの反応や、声、しぐさで気持ちを伝えてくれます。その表情を見れば『今、楽しいんだな』『ちょっと不満があるんだな』とすぐにわかる。強い要求は、『ママー!』と発音して呼ぶこともあります。
娘に何か働きかけると、必ず何かしらの反応が返ってくる。そこには、ちゃんと子どもらしさがあって、成長の実感もありました。遊んだり、子どもらしいことをしたりする中で、成長していくんだなということが、自然と伝わってきました。
今では人の顔もわかりますし、毎日繰り返していることは、ちゃんと覚えています。たとえば、“おふろに入ったあとは服を着る”、“学校に行くときは車いすに乗る”など協力動作をしてくれます。家の中のものの場所や、学校の中の場所も記憶しています。『学校に行くよ』と声をかけてドアを開けると、歩くことはできませんが、いざりでスタスタと移動していきます。
また、娘が生まれてから『私は一体どんなママでいたいんだろう』とあらためて考えるようになりました。自分自身の生育歴も振り返って、親がしてくれたこと、してほしかったけれどかなわなかったこと、何度も振り返り見つめ直しました。それも全部含めて結論として出たことは、娘に対して理想の母親像を押しつけるのではなく、ちゃんとコミュニケーションを取って“娘の意思をいちばん大事にする”、“本人を尊重する” 子育てをしたいということ。
それはたぶん、健常発達の子どもを育てているママやパパと、根本的には変わらないことだと思いますが、体も知的も障害が重いからこそ、意思を引き出せるよう意識して大切にしたいと考えました」(友岡さん)
現在、じゅのちゃんは15歳。完全に“思春期の女子中学生”だと友岡さんは言います。そんな多感な時期のじゅのちゃんに対しても、“本人を尊重する”ことを大切に過ごしています。
「娘は小学5年生くらいから、もうツンデレです。ママと一緒にいるときの表情と、ほかの人がいるときの表情は、たぶん使い分けているんです(笑)。私にはそっけなくても、友だちといるときは本当に楽しそうで。学校での授業中も、よく笑っていると先生から聞きます。
4月からは、特別支援学校の高等部に進学する予定。進路を決めるとき、『ママと家でゆっくりする』『お友だちが進学予定の学校に一緒に行く』『別の学校に行く』など、いくつか選択肢を示して、本人に意志を聞きましたが、即座に『友だちと一緒の学校に行きたい』と教えてくれました。友だちといるときや、学校で体を動かしているときは、本当に思いきり笑っていて。そういった姿が見られるのは私もうれしいです。
進学するとまた環境が変わりますが、娘が自分で決めた道なので、私はその意思を尊重して、しっかりサポートしていけたらと思っています」(友岡さん)
13トリソミーの現実を伝える「PROJECT13」への思い
友岡さんは自身の経験から、13トリソミーの子どもたちをもっと知ってもらいたいと「PROJECT13」という活動をはじめ、統括リーダーを務めています。どんな思いが込められた活動なのかお話を聞きました。
「私が娘を出産した当時、インターネットで13トリソミーについて調べても出てくるのは外見的な特徴が強調された写真や、『予後不良』といった、あまりにも絶望的な表現ばかりでした。
今は、妊娠初期の羊水検査などで結果が陽性、つまり“障害があること”や“13トリソミーの可能性がある”と妊娠中にわかることもある。そのときママやパパがインターネットで調べて、絶望的な表現ばかり目にしたときのショックは、計り知れないだろうなと思いました。検査でそういった障害があるとわかった場合、多くの方が中絶を選ぶと言われているのも、正直理解できます。
ただ、本当に知ってほしかったのは、その先です。実際に、13トリソミーの子どもたちがどんな生活をしているのか。それを親の目線で見たとき、きっと感じ方は変わるはずだと思ったんです。
PROJECT13の最初の活動は、写真展でした。『障害があっても、こんなにも生き生きとした日常を送る子どもたちがいるんだよ』ということを、少しでも社会に伝えたくて。
また、ママパパだけでなく、その写真を見た医療従事者の方々にも『13トリソミーだから』という理由だけで中絶を選択する必要はないのではないか…。子どもたちの笑顔を通して、出産という選択肢もあるんだよ、と伝えたい。そんな思いが込められた活動なんです。次回は都立小児総合病院にて2026年3月10日より写真展が開催されます。
医療の発達もあり、13トリソミーだからといって、必ずしも短命というわけではないということ。その子らしい生活が待っている場合もあり、今では長く生きる子どもたちもいる、という事実。それを知ったうえで、選択をしてほしい。この障害の理解が深まってほしい。そのために、この活動を続けていきます」(友岡さん)
お話・写真提供/友岡宏江さん 取材・文/安田萌、たまひよONLINE編集部
13トリソミーという重い診断を受けながらも、友岡さんは「じゅのちゃんとともに生きる」選択を重ねてきました。そんなじゅのちゃんと生活する中で、重症心身障害児のためのサービスがきわめて少ないと感じた友岡さんは、NPO法人Ohana kids(オハナキッズ)を立ち上げ、医療的ケア児や重心児のための施設を開所しました。インタビュー後編では、Ohana kidsを立ち上げた経緯や、活動に込めた思いについて、詳しくお話を聞きました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
友岡宏江さん
PROFILE
長女が13トリソミーを患う。自身の育児の経験から、世田谷区にNPO法人Ohana kidsを立ち上げ、子どもを主体とした発達支援事業を開始。2018年に「Ohana kids station」を、2020年には「Ohana kidsナーサリー」を開所、2023年「Ohanakids相談支援」、2025年に地域に開かれた子育て支援拠点「おでかけひろばOhana」を開設。各講演への登壇や13トリソミーの子どもを持つ親の団体「PROJECT13」の統括リーダーも務めている。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2026年2月の情報で、現在と異なる場合があります。


SHOP
内祝い
