「長く生きられない」と言われ617gで生まれた息子。壊死性腸炎で6度の手術を乗り越えて【体験談】
東京都板橋区を中心に、子育て中の人や地域で頑張る人を応援するために音楽活動をしている「音ごはん」。子育て応援主婦バンドです。そのボーカル兼代表の“もともとこ”さん、こと岡本元子さんの第3子・育(いく)くんは、617gの超低出生体重児で生まれたそうです。夫、長女(18歳)、二女(15歳)、育くん(12歳)との5人家族の岡本さんに、小さく生まれた育くんの子育てのことや、音楽活動への思いを聞きました。
「産むことはよく考えて」と言われ、応援してもらえなかった
――長男の妊娠当時の状況を教えてください。
岡本さん(以下敬称略) 妊娠5カ月のころに突然破水してしまい、受診すると全前置胎盤と診断され、即入院・絶対安静と言われました。産科の先生からの説明では「胎盤が通常より低い位置にあって子宮口をすべて覆っている危険な状態。22週を過ぎて帝王切開出産をしても、赤ちゃんに合併症や後遺症が残る可能性が高い」と説明を受けました。そして羊水(ようすい)が少なくなっていたので、おなかに針を刺して人工羊水注入の処置もしました。
私は、まさか自分の身にそんなことが起こると思わず、低出生体重児のことも、小さく生まれるとどんなことが起こるかも知りませんでした。先生や看護師さんたちからは最悪の事態の説明ばかりで、赤ちゃんが助かる希望のような話はなく「蘇生しない選択もあるからよく考えて」と言われました。私はこの子に会いたいのに、なんで産んじゃいけないんだろう、どうしてだれも「大丈夫だよ、頑張ろうね」と言葉をかけてくれないんだろう、と寂しく思っていました。
――岡本さんは、どうしても赤ちゃんに会いたいと思っていたんですね。
岡本 はい。赤ちゃんの心音の検査では、羊水も少なくて小さい体のはずなのに「どっくんどっくん」とすごく元気な心臓の音が聞こえました。だからこの子は絶対大丈夫!と夫と確信していたんです。それに、3人目にしてやっと夫が切望していた男の子。なんとか元気に産んであげたくて、毎日祈る気持ちでカレンダーの日付を塗りつぶしていました。
22週に入ると、先生から「陣痛が始まってしまうと、胎盤が先に出てしまい、赤ちゃんに酸素が行かなくなって95%が死亡してしまいますが、その状況になった場合に積極的蘇生を試みますか?蘇生をしない選択も間違いではありません」と話がありました。私たちの心は決まっていました。夫と2人で先生に「お願いします」と頭を下げました。
――その後、妊娠何週で出産となったのでしょうか?
岡本 23週までなんとか持ちこたえていましたが、子宮内感染があったようで出血をしてしまい、23週6日で緊急帝王切開手術に。息子は617gで産まれました。息子が生まれた瞬間、私はすごくうれしかったんです。でも、「おめでとうございます」って言ってほしかったのに、ちっともおめでたい雰囲気ではありませんでした。何かいけないことをしてしまったような・・・。息子は一瞬だけ近くで見せてもらったあと、すぐに保育器に入れられてNICUへ運ばれました。
壊死性腸炎にかかり、入院期間は生後10カ月にまで
――その後、育くんに会えたのはいつでしょうか?
岡本 産後の傷口の痛みがひどく、NICUの息子に会いに行くことができたのは出産の3日後です。肌の色は赤黒くて人間の赤ちゃんというより鳥のひなのようだなと思いました。小さく細い体にいろんな管やモニターケーブルがつながれて、一生懸命呼吸をしているわが子を見て涙がこぼれました。でも、小さいながらにまぶたにはまつ毛がしっかり生えていて・・・、その姿を見て「この子を守らなきゃ。絶対に育てるぞ」と決意しました。
――育くんは健康面で何か心配なことがありましたか?
岡本 生後1カ月を過ぎたころ、壊死(えし)性腸炎になってしまい緊急手術となりました。腸に穴があいてしまっていたので、壊死した腸の一部を切除し人工肛門を作る手術を行いました。そのほかに、点滴のためのカテーテルを入れる手術や、鼠径(そけい)ヘルニアの手術など、NICUで入院している間に6回ほど手術を受けました。7カ月でいったん退院したものの、風邪をひいたり腸の中に空気がたまるなどのトラブルがあって入退院を繰り返し、落ち着いて自宅で過ごせるようになったのは生後10カ月のころでした。そのころのことは、本当に毎日が無我夢中で、あんまり記憶がはっきりしません。息子と毎日過ごせないのも寂しかったし、息子がいない中で毎日3時間おきに搾乳をするのもつらかったです。
――つらい日々をどうやって乗りきったのでしょうか。
岡本 2人のお姉ちゃんたちの存在が救いでした。私がつらくて涙をこぼしたときはなぐさめてくれたし、赤ちゃんが家に来るのをすごく楽しみにしてくれていました。「赤ちゃんはどんな子?」って聞いてくれたり、「私たちが育てる!」って張りきってくれて、彼女たちの明るさに救われました。私が通院や手術につきそう間は、近所に住む私の母が2人の娘を預かってくれてとても助かりました。
退院後は1時間ごとの医療ケアで休む間もなかった
――退院後、育くんとの生活で大変だったことは?
岡本 息子が生後10カ月で退院したときには、おなかにガスがたまらないように腸に直接管がさしてあり、息子のおなかからキャップがついたチューブが出ている状態でした。自宅では私が定期的にそのチューブのキャップをはずし、注射器で空気を抜く必要がありました。でないと、おなかがはってミルクが飲めなくなってしまったり、最悪の場合は腸が破裂してしまうからです。
自宅での息子のケアは、腸の空気を抜く、浣腸(かんちょう)をする、「エレンタールP」という人工乳のような栄養剤を飲ませる、それを1時間おきにする必要がありました。並行して腸の成長のために離乳食も始めなければならず、休む間がなかったことがいちばん大変でした。息子がおなかから出ているチューブを自分で引き抜いてしまうこともあって、その度に緊急でまたチューブを入れに病院にいくことも何回もありました。やがて2歳になるとごはんも食べられるようになり、うんちも出るようになってチューブは卒業に。その後は後遺症や合併症もなく、元気に成長してくれました。
――発達面での心配はありましたか?
岡本 2歳までおなかからチューブが出ていたから、寝返りもできなかったし、歩いたのは2歳過ぎたころでした。発達面は心配だったのでリハビリにも通っていました。12歳になった今も、歩き方は少しぎこちなく、走るのもお友だちに比べると遅いです。でも、それも個性だと思って今はまったく心配していません。
バンドの活動で頑張るママたちを応援したい!
――現在はさまざまなイベントで音楽活動をしている岡本さんですが、ママバンドの活動を始めたきっかけは?
岡本 もともとミュージシャン志望だったんですが、結婚後は普通の専業主婦でした。次女の幼稚園卒園の謝恩会でママたちの本音を歌にしたオリジナル曲を作ってみんなで合唱したらすごく喜んでもらえたことがきっかけです。2014年1月に「音ごはん」を結成しました。子育てを頑張るママたちを応援したくて、私が作詞作曲しメンバーがアレンジして、レコーディングして音源を作って販売したりライブで披露したりしています。
親になると自分の好きな音楽を聴く時間がなかったり、心を解放する時間もなかなか取れなかったりすると思います。お子さんに医療的ケアが必要な場合はなおさら。私たちは公共施設、園、小学校、病院などでライブをしてきましたが、ママたちが私たちの曲の歌詞に共感して泣いてくれる姿を何度も見てきました。
今後は、小さく生まれた赤ちゃんのママたちの交流会や、リトルベビーハンドブックを作っている団体のイベントで歌えたらいいなと思ってます。私たちの曲に「あるある!」って共感して、泣いたり笑ったりしてスッキリしてもらえたらうれしいです。
――育くんは現在12歳。出産当時を振り返って思うことは?
岡本 息子は長く生きられないと言われて生まれました。私は息子が誕生当時からブログを始めたんですが、彼が短命だとしても記録を残して、同じようなだれかの役に立ったらいいな、と思う気持ちと、彼の生きた証しになったらいいな、という気持ちで書いていました。
私のブログやSNS、音ごはんのYouTubeでの発信で、小さく生まれた子が元気に育っている姿を見て希望を感じてもらえたらうれしいです。もちろん、小さく生まれた赤ちゃんは元気に育つ子だけではなく、天使ちゃんになってお空に帰ってしまう子もいるし、障害を持って生きる子もいます。でもみんな生まれてきた大事な命だよ、と伝えられたらいいなと思っています。
【大橋先生より】壊死性腸炎を乗り越えた育くんとママの大活躍!
育くんは超低出生体重児として生まれ、壊死性腸炎を発症してしまいました。それでも何度も何度も命の危機を乗り越えたすごい子です。壊死性腸炎という病気は、現在の進んだ新生児医療でも、いったん発症してしまうと極めて致死率の高い重病です。われわれ医療者は厳しい現実を知っているだけに、どうしても病気の危険性ばかりを強調して伝えてしまいますが、本来ならばもっと前向きに家族を応援すべきではないかと岡本さんのインタビューを読んで考えました。以前、岡本さんに誘われ「音ごはん」のライブに参加しました。ライブは笑いあり涙ありの舞台で、そこで活躍するお母さんや育くんの姿に自然に涙があふれてきました。音ごはんの飾らない音楽は、T Vでみる商業音楽と違い、母親が背中に赤ちゃんをおんぶしながら自然に口ずさむ子守歌のような、音楽本来の優しさと温かさに満ちたものです。医療関係者のみなさんはもちろんのこと、老若男女どなたでもぜひ一度音ごはんのライブに足を運んでもらいたいと思います。
お話・写真提供/岡本元子さん 監修/大橋研介先生 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
オンライン取材時にイヤフォンマイクが壊れ、急きょレコーディング用の大きなマイクでインタビューに答えてくれた岡本さん。明るく元気な岡本さんが「ママたちを応援したい!」という強い思いの元には、ご自身の大変だった出産と子育ての経験があるからなのでしょう。
大橋研介先生(おおはしけんすけ)
PROFILE
埼玉県立小児医療センター泌尿器科 科長。昭和48年生まれ。1999年日本大学医学研究科卒業。日本大学医学部小児外科などの勤務を経て2020年より現職。日本小児外科学会専門医・指導医、日本外科学会専門医・指導医、日本小児泌尿器科学会認定医。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年4月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。