家庭崩壊、いじめ・・・安らげる居場所がどこにもなく、高校中退。そして20歳で出産した4児のママ助産師、「この仕事が私に第二の人生をくれた」【体験談】
助産師・菊地愛美さんは、神奈川県寒川町でお産を扱わず、育児支援に特化した「助産院mamana.house」の代表を務めています。笑顔が絶えない、おおらかな雰囲気をもつ菊地さんですが、実は、高校を中退して働き始め、20歳で第1子を出産。その後助産師の資格を取得し、4児のママとして育児と仕事を両立という、波乱万丈の人生を歩んできたと言います。菊地さんに、これまでの経験を聞きました。
家庭崩壊、いじめ・・・安らげる居場所がなくて、高校中退
――菊地さんが助産師をめざした経緯を教えてください
菊地さん(以下敬称略) 私が育った家庭環境はあまりよくありませんでした。父はお酒ばかり飲み、仕事も続かず、両親は毎日けんかばかり。家庭の空気は本当に悪かったです。
しかも私が中学生のときに両親が離婚。母は精神的に不安定になり、部屋に引きこもるように。学校でいじめにあっていた私には、安らげる居場所がどこにもありませんでした。
そんな状況の中、いろんなことに嫌気がさして高校に進学したものの中退し、アルバイトをかけ持ちして生活していました。
けれど、中卒の私が仕事をして自立しようとしても安い給料の仕事しか見つかりません。アルバイトを続ける日々の中でこのままだと自分が壊れてしまう、もっともっとひどいことになってしまう、と感じたんです。そんなとき、ふと、中学生時代に「助産師ってすてきな仕事だな」とあこがれていたことを思い出しました。
そこで、もう一度頑張ってみようと一念奮起し、必死で勉強することにしました。
助産師の夢をあきらめきれず、大学入学資格検定を経て大学進学へ
――どのくらい勉強したのでしょうか?
菊地 トイレやおふろにも教科書を持ち込んで無我夢中で朝から晩まで勉強していました。
おかげで大学入学資格検定に合格し、大学受験をして慶應大学看護医療学部に入学しました。19歳のときのことです。
――助産師のどんなところに魅力を感じたのでしょうか?
菊地 中学生のころは本当につらいことばかりで、自分が生まれた意味もわかりませんでした。「どうして生まれてきたんだろう、生まれてこなければよかった・・・」そんなことばかり考えていました。
ちょうどそのころ、家庭科でお産の授業があったんです。 命がけで生まれようとする子どもと、命がけで産もうとする母親、それを支える助産師の姿に感銘を受けました。思春期の多感な時期に生きる希望を見失っていた私は、「こんな素晴らしい仕事があるんだ」と魅力を感じました。
その記憶がいつも頭の片隅にはあって、「変わらなきゃいけない」と思ったときに、「助産師になろう」と決意しました。
必死で入学したものの、まさかの妊娠。学業と育児の両立に、朝から深夜まで奮闘
――大学入学後はどんな生活を送っていましたか?
菊地 入学後も勉強についていくのが大変で、勉強づけの毎日でした。ところが大学入学後、1年くらいしたときに当時交際中だった現在の夫の子どもを妊娠したんです。20歳のときのでした。
私の中で産まない選択肢はありませんでした。しかし、そのときすでに奨学金も数百万円借りていたこともあり、育児しながら助産師の資格を取得できるのか、不安ばかりでした。その後夫となる彼は「協力するから、勉強も育児も、両方頑張ろうよ」と言ってくれたんです。
出産後、また学業に戻りました。でも今から約15年前の当時、学生ママという要件で保育園入所の前例がなく、最初は認可保育園に入ることができませんでした。なので月7万円かかる託児所に長男を預けて勉強を続けました。
学生だからお金がなく、ハードな授業の合間にアルバイトをして、託児代を稼ぐ毎日です。託児所には本当に感謝しかありません。看護実習があったので、毎朝、だれよりも早く長男を送り、いちばん遅くに迎えに行きました。
長男はぜんそく持ちで、入院したこともありました。だから、昼間は病院で助産師実習をして、夜は同じ病院の小児科に入院する長男に付き添う生活をしたこともあります。
――本当に壮絶な経験をしていると感じます。どんなに大変でも助産師になることをあきらめなかったのはなぜでしょうか。
菊地 「助産師になりたい」という気持ちが本当に強かったからです。この夢があったからこそ、どんなことにも向き合えました。それに、何事もあきらめるのは嫌な性格なんです。私は一度、高校を中退して、たくさんのことから逃げてしまいました。
逃げると一時的には楽になるから、逃げ癖がついてしまいます。そこからはい上がるためには、通常の2倍、3倍の努力が必要だということを嫌というほど学びました。ざせつする怖さを経験したからこそ、どんなことも積極的に取り組もうと思っています。もし「助産師になる」目標がなかったら、どんな人生になっていたか想像したくもありません。助産師という仕事が、私に第二の人生をくれました。そして今、まさに天職だと思っています。
若年出産、9年間の不妊の経験、年子出産、4人目出産・・・助産師の仕事はすべて生かせる
――2022年、神奈川県寒川町で唯一の助産院「助産院mamana.house」を立ち上げました。
菊地 お産を扱わず、産前・産後ケアや子育て支援に特化した助産院です。いちばんの目的は「ママを笑顔にすること」です。今の日本は、「育児中のママは睡眠不足が当たり前、子どもの世話を最優先して、自分のことは後回し」という固定観念がいまだに根強く残っている気がしています。
だからママたちは自分を犠牲にして、必死に育児をしています。でも、ママがしんどくなると、そのしわ寄せはパパや子どもたちに向かいます。健全な育児をするためには、まずはママ自身がゆっくり食事をして、睡眠をきちんととれる、ごく当たり前の生活を送ることが大切だと感じます。
「助産院mamana.house」は、ママ自身がきちんと自分を大切にできるようサポートをし、エネルギーチャージをしてもらうことを重視しています。ママが笑顔になると、子どもも幸せを感じ、家庭そのものが元気になるからです。
実は「助産院mamana.house」の開業準備を始めた際、4人目を妊娠したんです。「まさかこのタイミングで?」と驚きました。
私は20歳で最初の子を妊娠・出産したあと、再び子どもを授かりたいと思ってから3年ほど不妊で悩んだことがあります。不妊治療も経験し、精神的に疲れて治療をお休みしたあと、2人目、3人目をまさかの年子で妊娠・出産しました。こうした経験がすべて助産師の仕事に役立っています。だから、開業準備を始めたタイミングで4人目を妊娠したのも何か意味があるんだと思いました。
もちろん大きいおなかを抱えながら開業の準備を進めるのは大変でした。出産前日まで夫と作業をし、出産後もすぐ開業準備にむかいました。夫は、私が目標を定めると、達成するまで突き進む姿を見慣れています。だから、「どうせ、決めたらやるんだろう」と言っていつも背中を押してくれます。もしかすると、日々の生活のなかでは「もうちょっとどうにかならない?」と思われているところもあるかもしれません(笑)。それでも、私を理解し、応援してくれるパートナーがそばにいてくれるのはありがたいです。しんどいことも多かったけれど、自分の人生も、子育てもどちらも楽しむことが大切だと思います。
お話・監修・写真提供/菊地愛美さん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部
助産師になるまで、波乱万丈な日々を過ごし、4児を育児しながら仕事と両立する菊地さん。さまざまな経験を重ねたからこそ、たくさんのママたちを笑顔にできるのかもしれません。
菊地愛美さん(きくちまなみ)
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助産師。助産院代表。 青森県出身。中学卒業後に働き始め、大学入学資格検定取得。慶應義塾大学看護医療学部在学中、20歳で結婚、出産。同大学、神奈川県立衛生看護専門学校助産師学科を卒業し、助産師としてお産をサポート。1歳から高校生の4人の子育て中。2022年、産前・産後ケアに特化した子育てサポート施設「助産院mamana.house」を立ち上げ、全国でも珍しい赤ちゃん向けの子ども食堂・赤ちゃん食堂「ままな」を運営する。