息子は生まれてきてすぐピエロと呼ばれた。皮膚の難病「道化師様魚鱗癬」を抱える息子とともに生きる【体験談・医師監修】
2016年12月生まれの濱口賀久くんは、胎児のときから皮膚がかたくなり、魚のうろこのように皮膚がはがれ落ちる難病「道化師様魚鱗癬(どうけしようぎょりんせん)」を抱えて生まれました。両親の濱口陽平さん(36歳)と結衣さん(36歳)は、治療法もなく、見た目にも影響する難病と向き合い、賀久くんの成長を見守っています。母親の結衣さんに、賀久くんが生まれたときの様子を聞きました。全4回のインタビューの1回目です。
出産直前まで順調そのもの。帝王切開後、医師たちが騒然としだして・・・
結衣さんは29歳で第1子を妊娠しました。妊婦健診はずっと順調でしたが、一つだけ問題がありました。おなかのなかの赤ちゃんがずっと横向きのままで、頭が下にならなかったのです。経腟(けいちつ)分娩は難しいと、帝王切開で出産することになりました。
「もともとは産科クリニックで帝王切開の手術を受けるはずでした。予定日は2017年1月でしたが、早く破水したため、2016年12月、妊娠35週で三重中央医療センターに搬送されました。三重中央医療センターは、低出生体重児の出産も扱うような大きな病院です。私の場合は赤ちゃんの体重も2000g以上あり、問題は横向きになっているということだけでした。出産2時間前の健診でも『問題ありません』と太鼓判を押してもらっていたんです」(結衣さん)
結衣さんは里帰り出産を予定していて、東京の自宅から実家がある三重県に帰省していました。東京で仕事をしていた夫の陽平さんは、手術の日に合わせ休みを取り病院に来ていました。
結衣さんの帝王切開の手術が始まったとき、手術室の外では、結衣さんの母親と夫が待っている状況です。
「いざ手術が始まり、赤ちゃんの声が聞こえたと思ったとたん、手術室が騒然となる事態に・・・。部分麻酔で意識のあった私に、医師たちが『えっ、どういうこと?』とあわてる声も聞こえました。
何が起きたのかまったくわかりませんでした。ほんの少しだけ見えた、生まれたばかりの息子・賀久は、想像していた赤ちゃんの姿とは、かけ離れていました。全身が傷だらけで正常な皮膚が無いように見えました。目は真っ赤で、手足には変形があって・・・。初めてその姿を目にしたときは、『私は、何を産んだんだろう・・・』というのが正直な気持ちでした」(結衣さん)
感染症のおそれがあるため、賀久くんは、結衣さんと触れ合うこともなく、すぐに無菌カプセルに入れられ、NICU(新生児集中治療室)に移されました。
結衣さんが出術室の外に出ると、真っ青な顔をした夫と母親が立っていました。
「『出産直前まで順調だったのに、どうして?』と混乱し、どんな感情を抱いたらいいかさえわかりませんでした。手術直後は疲れきって眠ったのですが、目が覚めたら、病院側が配慮してくれて、個室は頼んでいないのに個室を使わせてくれました。面会時間も21時までのはずなのに、一晩中夫が付き添ってくれたんです。やっぱりただ事ではない何かがあったんだ、と思わざるをえませんでした」(結衣さん)
生まれた息子は皮膚の難病「道化師様魚鱗癬」だった。最初は病気の名前さえ理解できなくて・・・
翌日、改めて賀久くんに会いにNICUへ行くことになりました。「どんな姿でもわが子」と自分に言い聞かせ、賀久くんと面会をした結衣さんは言葉を失います。
「賀久はたくさんの管を付けられていて、昨日見たとおり、痛々しい姿でした。皮膚への刺激が強すぎるため、肌着はもちろん、おむつもきちんとつけられない状態でした。感染症のおそれがあるため、直接触れることもできません。『やっぱり現実だった・・・』と、涙も出ないほどのショックを受け、医師から説明を受けるはずだったのですが、見送りになりました。
病室に戻ると、母と夫が待っていました。出産後、私が眠っている間に夫はある程度、医師から話を聞いていたようです。先生が伝えた病名は『おそらく道化師様魚鱗癬だろう』ということでした。私は病名の意味もよくわからなくて・・・。『魚のうろこ?道化師・・・?ピエロってこと・・・?』と混乱しました。妊娠中はずっと順調だったのに、何が起きたんだろうと涙があふれました。
支えになってくれたのは、母と夫です。2人もショックだったと思うのですが、すぐに気持ちを切り替えていました。母は、『どんな子でも孫には変わりがない』と言ってくれました。夫もつらいだろうに、医師からの説明を受け、すぐに病気について調べていました。現実を受け止め、前を向く2人の姿はとても頼もしかったです」(結衣さん)
道化師様魚鱗癬は胎児のときから皮膚がかたくなり、魚のうろこのように皮膚がはがれ落ちる病気です。乾燥によるかゆみがひどく、細菌やウイルスをはねのける皮膚のバリア機能も低下し、感染症になりやすくなります。特効薬や治療法はなく、乾燥を防ぐためワセリンなどの保湿剤を塗る対症療法しかありません。
魚鱗癬という病気の種類のなかでも、道化師様魚鱗癬は最重度です。
「非常にめずらしい病気のため、最初は医師たちもどんな病気かわからず、驚いたと聞きました。たまたま皮膚科に魚鱗癬に少しだけかかわったことのある先生がいて、『おそらく魚鱗癬』とわかったようです。
私たち夫婦は出産前、『赤ちゃんが生まれたらたくさん遊んであげよう、いろんなところに連れて行ってあげよう』と楽しみにしていました。それが、思いもよらぬ事態になり、どんな未来が待っているか想像もできなくなってしまいました。それでも、必死に現実を受け入れようとしました。
賀久が無事に生まれたのは、さまざまなタイミングが重なったおかげでした。もし早産でなかったら、賀久の症状はもっとひどくなっていました。帝王切開でなく、自然分娩だったら感染症を起こしていたし、予定通り産科クリニックで出産していたら、適切な処置ができなかったはずです。この病気自体を知らない医師も多いなか、たまたま昔、よく似た症状の患者さんを診たことがある先生がいて、早い段階でどんな病気か予測がついたことも大きかったです。
病気へのショックと難病を抱えて生きることになる息子への申し訳なさを感じる一方で、『賀久は運の強い子だから大丈夫』と自分を奮い立たせ、前を向こうとする思いもあり、気持ちの浮き沈みが激しかったです」(結衣さん)
陽平さんの両親も、「同じ親としてつらさがわかる」と結衣さんに寄り添ってくれました。友人たちも「強がってガマンしたらダメだよ」と声をかけてくれたそうです。
手袋越しに感じた息子のぬくもり。少しずつ改善されていくことがうれしかった。
賀久くんはNICUに入院していましたが、結衣さんは一足先に退院し、毎日搾乳し1時間かけて母乳を病院に届けることになりました。最初は口から飲ませることもできず、搾乳したものを看護師に渡し、チューブで体内に入れていました。
出産後は、家族で夫が働く東京に戻る予定でした。でも賀久くんがいつ退院できるかも、長時間移動できるかもわかりません。そのため、夫は会社に相談をし、三重県に異動させてもらうことになりました。
「産後1カ月が過ぎたころ、初めて賀久に触れていいと許可が出ました。感染症のおそれがあるため、エプロンを何重にも身に着け、滅菌手袋をはめ、賀久の寝ている無菌カプセルの小さな穴から手を入れる状態です。
初めて賀久のぬくもりを感じたときは、うれしくてたまりませんでした。同時に手袋越しで、指先だけでしか触れられないのがせつなくもありました。それでも、最初はどうなるかわからなかった子に触れられるようになったのは、大きな進歩でした。毎日頑張って生きる賀久の姿がいとおしく、早く抱っこしたい、もっと一緒にいたいと感じました」(結衣さん)
賀久くんの状態は、少しずつ改善していきました。NICUからGCU(NICUで治療を受け、状態が安定してきた赤ちゃんが引き続きケアを受ける場所)に移ることになりました。
「母乳も綿棒の先に染みこませ、口に含ませられるようになり、口から飲めるようになっていきました。敷いているかのせているだけだったおむつも、テープを留められるようになりました。私は看護師に教えてもらいながら、賀久のお世話を少しずつできるように・・・。
入院して3カ月ほどたったころ、医師から退院を提案されました。感染症にかかる可能性はあるけれど、治療法がないため病院でも保湿しかできないとのことでした。
もちろん、病院も私たちのことをすごく考えてくれて『外に出るのが不安だったらまだ入院していて大丈夫です』と言ってもらえました。でも、3カ月の間に賀久も大きくなっていたし、NICUには、小さく生まれてきた赤ちゃんが次々と運ばれてきていました。だから、これは退院のタイミングだと思いました。先生からは退院後もずっとサポートしてくれると言ってもらえ、心強かったです」(結衣さん)
結衣さんは賀久くんの退院前に病院に2回ほど泊まり、薬の与え方や沐浴の方法、夜の過ごし方も学びました。
ようやく訪れた退院の日。多くの看護師たちが「退院よかったね」「寂しくなるなあ」などと声をかけてくれました。
「賀久が難病を抱えて生まれてきたことは、本当にショックでした。でも、夫や母、夫の両親や義姉、友人、看護師や医師と、たくさんの人が支えてくれました。
私自身は、賀久の病気を受け入れるために特別なことをしたつもりはないんです。でも、周囲の人たちもつらいだろうに、倒れそうになるくらいのところを踏ん張り、息子はもちろん、私のこともフォローしてくれました。賀久の生命力の強さも励みになり『私も頑張らないと』と思えたんです。
賀久が生まれたことで、周囲の温かさや気づかいに気づくことができました。賀久は、私たち夫婦にたくさんのプレゼントをくれたと思います」(結衣さん)
【小川先生より】皮膚の難病のため、生まれてすぐに新生児集中治療室に
病気の出生前診断が困難である場合も少なくありません。皮膚の難病のため生まれてすぐにNICUへ入院となった賀久くんでしたが退院までよく頑張ってくれました。お母さんが「私も頑張らないと」と前向きな気持ちになってくれて本当によかったと思います。
お話・写真提供/濱口結衣さん 監修/小川昌宏先生 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部
やわらかい雰囲気のなかに芯の強さを感じさせる結衣さん、家族思いの夫・陽平さんの夫婦は、賀久くんの病気を受け入れるまで想像もできないほどの葛藤を乗り越えてきました。
賀久くんの生命力の強さ、周囲の人たちの温かさに支えられ、病気とともに生きる決意をした濱口さん夫婦は、賀久くんに寄り添っています。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
小川昌宏先生(おがわまさひろ)
PROFILE
小児科医。国立病院機構三重中央医療センター臨床研究部長。日本小児科学会専門医。滋賀県出身。三重大学医学部卒業、旧国立津病院の研修医を経て、三重県内の小児科で活躍。現在は国立病院機構三重中央医療センターで小児病棟とフォローアップ外来を担当。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年8月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』
道化師様魚鱗癬。ピエロ?魚のウロコ?こんな病気があることを知ってほしいという母親の発信。100万人に1人の難病・奇病に立ち向かう、親と子のありえないような本当の話。ピエロの母著/1870円(KKベストセラーズ)