妊娠5カ月で赤ちゃんが5万人に1人の難病、「4pマイナス症候群」と判明。「産声は聞けないかもしれない」と言われ目の前が真っ暗に【体験談・医師監修】
加藤亜里沙さん(パート勤務・38歳)は和歌山県新宮市で、夫の栄作さん(会社員・38歳)、希乃羽(ののは)ちゃん(12歳)、希帆乃(きほの)ちゃん(9歳)の家族4人で暮らしています。二女の希帆乃ちゃんは、5万人に1人といわれる染色体異常の難病、4pー(マイナス)症候群と闘っています。希帆乃ちゃんの妊娠中から、生後しばらくの症状などについて、亜里沙さんに話を聞きました。全3回のインタビューの1回目です。
妊娠5カ月ごろ、おなかの赤ちゃんの成長に異常が・・・
長女、希乃羽ちゃんの出産から3年たったころ、第2子の妊娠がわかった亜里沙さん。当時住んでいた横浜の自宅近くのレディースクリニックで妊婦健診を受けていましたが、妊娠5カ月ごろに赤ちゃんの発育がゆっくりになる胎児発育不全と診断を受けました。そこで妊娠6カ月になるころ、より詳しい検査を受けるために国立成育医療研究センター(以下、成育医療研究センター)へ転院することになりました。
「成育医療研究センターでは、さらに詳しく赤ちゃんの状態を調べるために羊水検査を受けました。その結果、おなかの赤ちゃんは5万人に1人といわれる染色体異常の疾患である4p-(マイナス)症候群であるのこと。4p-症候群は、4番染色体の一部が欠失している遺伝性の病気です。先生の説明では、4p-症候群の人の多くは、広くて平らな鼻筋や左右の目の間隔が広いといった特徴的な顔立ちをしているそうです。また成長障害、精神や運動の発達遅滞や知的障害などがあらわれることがある病気とのことでした。
『検査でわかったことは、おなかの赤ちゃんにはさらに口唇口蓋裂、低形成腎、低体重などが見られるということ。そして、ほかにもたくさんの合併症をもって生まれてくることが予想される』とも言われました。
赤ちゃんの成長がゆっくりだとわかってからの妊婦健診では、赤ちゃんの推定体重が1gも増えていないこともあったので、羊水検査となった段階で『きっと何かある』と覚悟していたつもりでした。でも、検査結果の事実を聞いたときはショックで目の前が真っ暗に・・・。赤ちゃんを無事に産んであげられるのか不安で胸がいっぱいになり、自然と涙があふれてきました。4p-症候群の病名も初めて聞いたので、診察後にネットでたくさん調べました」(亜里沙さん)
「産声は聞けないかもしれない」と言われたけれど・・・
おなかの赤ちゃんの病気のことがわかってからは、亜里沙さんは胎児診療科の医師や、新生児科の医師、生まれた赤ちゃんの合併症の治療にあたる医師たちに詳しく検査をしてもらいながら、出産までの日々を過ごしました。
出産は、妊娠38週になるころの2014年4月に、陣痛促進剤を使用しての計画分娩をすることになりました。
「染色体異常があるために、赤ちゃんがどのような状態で生まれてくるかの予想が難しいことや、エコーではわからない合併症によりすぐに処置が必要となる可能性も高かったので、さまざまな診療科のドクターがそろう万全な体制で出産を迎えるられるように計画分娩になりました。
出産前には、先生たちから生まれてくる赤ちゃんは自分で呼吸ができないかもしれないこと、産声は聞けないかもしれないこと、すぐに命にかかわる状況になるかもしれないこと、などのていねいな説明があり、私も心の準備ができたように思います。
そして、妊娠38週1日、陣痛促進剤を使用してLDR(陣痛・分娩・回復室)での経膣分娩で、体重1662g、身長42cmの希帆乃が生まれました。生まれた瞬間には、しっかり大きな声で『うんぎゃあーーー!!』と泣いてくれたんです。赤ちゃんは私のおなかでちゃんと生きてくれていた・・・安心と喜びといろんな覚悟と、たくさんの感情で胸がいっぱいになり、涙がこぼれました。
助産師さんが娘をすぐに近くに連れてきて会わせてくれました。『やっと会えた』『小さい』『お口が割れてる』『お顔に特徴がある』と思いがめぐりました。そして『小さな体で頑張って生まれてきてありがとう』と深く感じました。長女を産んだときとは全然違う気持ちでした」(亜里沙さん)
生まれた喜びもつかの間、希帆乃ちゃんは呼吸状態が不安定でさまざまな処置が必要だったため、すぐにNICU(新生児集中治療室)に運ばれていきました。
希望を持って荒波に負けないように「希帆乃」と名づけた
その後、亜里沙さんと栄作さんがNICUの保育器にいる希帆乃ちゃんに会えたのは、出産した日の午後のことでした。
「NICUの保育器にいた私たちの小さな赤ちゃんは、たくさんの管につながれていました。夫が先に保育器に手を入れ、おしりと頭を支えるように抱っこしました。夫は『小さいけれどとても生命力がある子だ』と感じたそうです。ただ、生まれてすぐの希帆乃は触れられることにとっても敏感で、夫が抱っこしただけで血液中の酸素濃度が低下してしまいました。なので、私の初抱っこはしばらく待って希帆乃の状態が安定してからに。やっと指先で触れることができた希帆乃は、薄い皮膚がはかなくてもろく感じると同時に、とってもあたたかかったです。
私たちは、『どんな困難があっても希望を持って、荒波にも勝てる強さを持って生きてほしい』と想いを込めて“希帆乃(きほの)”と名づけました」(亜里沙さん)
希帆乃ちゃんに面会したあと、亜里沙さんと栄作さんは医師から希帆乃ちゃんの健康状態や、持って生まれた合併症について説明されました。
「希帆乃は、口唇口蓋裂、慢性腎不全、心房中隔欠損症など・・・さまざまな臓器に問題を抱えていました。そして、これからどんなふうに状態が変化していくか予想がつかないため、起こった症状に対処していくことになる、という説明を受けました」(亜里沙さん)
面会に行くたびに思った「生きてくれてありがとう」
産後5日ほどで亜里沙さんは先に退院しました。その後は、横浜の自宅から成育医療研究センタ―まで、電車とバスを乗り継いで1時間半ほどかけてNICUに通う日々が続きました。
「夫は毎日始発に乗って、出勤前に希帆乃に搾乳した母乳を届けてくれました。私もできる限り希帆乃がいるNICUに通いました。面会に行って希帆乃に『おはよう』と声をかけるたびに『今日も生きていてくれてありがとう』と思う日々でした。
希帆乃は幸い入院中に大きな感染症にかかることなく、呼吸状態も日を重ねるごとによくなりました。でも、ミルクがなかなか飲めずに体重の増えはよくありませんでした。口唇口蓋裂用の哺乳びんで搾乳した母乳を飲ませていましたが、飲んでいると疲れてしまって少しの量を飲ませるのにもすごく時間がかかるような状況でした」(亜里沙さん)
ミルクがうまく飲めないことのほかに、排尿がなかなかうまくいかない問題もありました。詳しく検査をすると、腎臓に尿が逆流している(尿管逆流症)ことや、膀胱(ぼうこう)がうまく機能せずにたまった尿があふれ出るように排尿される(神経因性膀胱)ことがわかりました。
「希帆乃はもともと低形成腎のため腎機能が悪かったので、腎臓に負担をかけないために導尿が開始されました。導尿は、膀胱にたまったおしっこを排出させるために尿道口からカテーテルを入れる方法で、1日に6〜7回ほど行う必要がありました。希帆乃は、導尿をするたびに足をぐっと閉めてなかなか力を抜いてくれませんでした。きっと痛みがあって嫌だったんだと思います。
希帆乃が退院するためには、導尿のやり方を親の私たちが覚えて毎日行うか、手術をして膀胱皮膚ろうを作るかの選択をしなければなりませんでした。
膀胱皮膚ろうというのは、おへその下あたりの皮膚と膀胱にチューブをつないで、膀胱にたまったおしっこが体の外に排出されるしくみです。膀胱皮膚ろうに吸水パッドを当てて排出されるおしっこを吸収させるようにして、その上から紙おむつをします。
夫と相談して、命を守るために導尿は必要なことだけれど、そのために希帆乃に余計な苦しみを与えてるんじゃないか、と1日に何度もされる希帆乃の気持ちを考え、膀胱皮膚ろうの手術をすることにしました」(亜里沙さん)
4歳だった長女は妹の退院をとっても喜んでくれた
NICUの入院中に膀胱皮膚ろうの手術を受けた希帆乃ちゃんは、生後3カ月の2014年7月に退院して自宅に帰れることになりました。
呼吸状態も安定して酸素投与もなく、時間はかかるもののミルクも少しずつ飲めるようになっていました。
「在宅での医療ケアは必要ない状態で退院することができました。口唇口蓋裂については、1歳前後に手術をすることが決まっていて、口に医療用テープをはって皮膚が開かないような処置をしての退院でした。
やっと一緒に暮らせるうれしさの反面、ちょっとしたことでも健康状態が変わりやすい希帆乃の子育てが私たちに務まるのか、心配な気持ちもとても大きかったです。でも、希帆乃なりにほんの少しずつ成長している姿に、彼女の生きる力を感じていました。
希帆乃が帰ってきて、いちばん喜んだのは当時4歳だった長女でした。やっと生まれたのに、いつもNICUの窓越しでしか会えなかった妹がおうちにいる、ただそれだけで長女にとってはとてもうれしかったようです。希帆乃にべったりで、待ちに待った希帆乃との生活への喜びを全身で表現していました。大人の心配をよそに、自然と希帆乃のことを受け入れてくれました」(亜里沙さん)
【中村先生から】こどもの病気を受容し、治療を選択していくこと
総合診療部の前に、新生児科医としてNICUで長く仕事をしていました。NICUでは、出生前診断を受け、不安の中で出産を選択され、日々の葛藤の中で、お子さんの病気を受容し、治療を選択される希帆乃ちゃんとその家族のようなお子さんとご家族と厳しい時間を過ごしておりました。今回のお話の中には、まだまだ言い尽くせないご家族の複雑な思い、自分たちが決めたことへの納得、厳しい時間の中で作り上げられる子どもや家族への深い思いがあることでしょう。生きることへの感謝と、生きるということの意味を深く考えることで、御両親そしてご家族は深い絆(きずな)で結ばれているのだと思います。
お話・写真提供/加藤亜里沙さん 監修/中村知夫先生 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
「妊娠中には赤ちゃんの病気が心配でネットで毎日のように調べた」と亜里沙さん。幸いなことに大きな産声を上げて生まれた希帆乃ちゃんは、家族からの大きな愛情を受け、いくつもの手術を乗り越えながらゆっくりと成長しています。インタビューの2回目は、希帆乃ちゃんの4歳までの闘病の様子と家族で初めて撮影した記念撮影のことについてです。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
中村知夫先生(なかむらともお)
PROFILE
国立成育医療研究センター 総合診療部 在宅診療科医長、医療連携・患者支援センタ-在宅医療支援室室長。1985年兵庫医科大学医学部卒業。兵庫医科大学小児科、大阪府立母子総合医療センター、ロンドン・カナダでの研究所勤務などを経て、国立成育医療研究センター周産期診療部新生児科医長ののち、現職。小児科・周産期(新生児)専門医、新生児蘇生法「専門」コースインストラクター。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年9月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。