「死ぬのだろうか…」白血病の告知を受けた瞬間、2人の娘たちのことが頭をよぎり心配に…【2児のママ・アナウンサー小澤由実の闘病体験】
元NHKキャスターで、現在はフリーのアナウンサー・キャスターとして活躍する小澤由実さん。2022年、子どもたちが中学2年生と小学4年生のときに、急性リンパ性白血病と診断され、長期入院による治療を経験しました。そんな小澤さんに、病気がわかったときのことや、闘病中の子どもたちとのかかわりのことなどを聞きました。
告知の瞬間はさまざまな感情があふれ、2人の娘たちのことが心配に…
――まず、急性リンパ性白血病が判明したときのことを教えてください。
小澤さん(以下敬称略) 病気がわかったのは、2022年の4月。きっかけは発熱でした。3日に1度くらい、夕方になると微熱が出ることがあったのですが、翌朝には平熱に戻っていたので、自律神経の乱れかな…くらいに思っていたんです。でも、そんなことが1カ月くらい続き、そのうち熱が下がらなくなり、近所の内科クリニックを受診。血液検査をすると数値に異常が見つかり、大学病院でより詳しい検査をするようにすすめられました。
大学病院で検査をすると、急性リンパ性白血病であることがわかり、告知された翌日には入院して治療がスタートしました。
――告知を受けたときの小澤さんの心境や、家族の反応は?
小澤 大学病院での検査には夫も同行し、夫婦で一緒に告知を受けました。そのときは2人ともただ静かに先生の話を聞いているような感じでした。告知を受けるまで、夫は「最初のクリニックでの血液検査の数値が異常だったのだから、なにもないわけがない」とある程度覚悟はしていたようですが、私自身は「これまでずっと健康優良児のように元気だった私が、病気なんて、まさか…」という気持ちがあって、あまり深刻には考えていなかったんです。
急性リンパ性白血病だと言われた瞬間は、さまざまな感情が一気にあふれるような感じでした。原因がわかってほっとした感情や、10万人に1人といわれる白血病になんで私が?という気持ちや、死ぬのだろうか…という不安も。そして、すぐに、2人の娘たちのことが心配に。当時、長女は中学2年生で、思春期で多感なとき。二女は小学4年生で、中学受験のための進学塾に入ったばかりでした。
告知と同時に、先生から「約半年間の入院をして治療をする」と今後の治療方針についての話があったので、半年治療をしたら、助かるのかな…と希望も見えましたが、半年間も入院をして治療をするなんて、娘たちは大丈夫なんだろうか…という不安も。入院中、娘たちの生活、とくに食事はどうしたらいいんだろう…、二女の中学受験は私が不在では無理なのでは…、今いただいている仕事を断らないと…など、とにかくいろいろなことが頭をよぎりました。なんで白血病になってしまったんだろう…と自分のことを責めるような気持ちも。何がダメだったのか病気になった原因も知りたくなりました。
先生からは、「遺伝子の異変で起こる血液のがん。いまだに解明されていないけれど、生活習慣は関係なく、交通事故に遭うようなもので、だれにでも起こりうるもの」と説明があり、自分を責めずに済みました。
娘たちに病気のことを告げたとき、二女は泣いてしまい、長女は泣くのを我慢している様子でした
――娘さんたちにはどのように伝えましたか? 夫婦で伝え方を打ち合わせしたりしたのでしょうか?
小澤 告知されたのが夕方で、翌日には入院だったので、本当にバタバタで。打ち合わせをするような余裕はありませんでした。大学病院が家から近かったので、移動時間もそんなになかったんです。移動中は夫と、「水泳選手の池江璃花子さんも白血病を治療して元気に復活しているんだから大丈夫だよ」なんて話をしているうちに家に着きました。
帰宅すると、娘たちが「検査はどうだった?」と待ち構えていました。「今から話すから…」と言った私の深刻そうな表情を見て、娘たちは「重い病気なのかも」と察したようでした。急性リンパ性白血病ですぐに入院して治療することを伝えると、二女は泣いていました。長女は泣くのを我慢しているような様子。あとから聞いたら、「自分が泣いたら、ママは治らない病気なんだってママに思わせてしまうかも」と、私の前では泣かないように気を使っていたようです。
――その日の夜はどのように過ごしたのでしょうか? 夫婦でどんな話をしましたか?
小澤 入院準備が忙しく、夫婦や家族でゆっくり話すような時間はありませんでした。まず、入院するのはお産入院以来だったので、自分の入院準備も戸惑うことだらけ。
近所に住む義父母が心配して訪ねて来てくれたので、私が入院中にサポートしてもらいたいことの説明やお願いをして、仕事先にも電話して事情を話し、その日の夕食の準備や片づけをして…と忙しすぎて記憶も曖昧なほど。
あと、私が入院しても家族が困らないように、家中に貼り紙もしたんです。「鏡をふいてね」「排水溝が詰まらないように汚れを取って」など、普段私がしている名もなき家事など、いろいろなことを紙に書いて貼った記憶があります。
全部準備が終わったときには深夜でした。夜、布団に入ると、もし、治療がうまくいかなかったら…この世からいなくなってしまうのだろうか…と急に恐怖が押し寄せてきて、声を押し殺して静かに泣きました。
娘たちの前ではなるべく元気にふるまい、「大丈夫だよ」と伝えるように
――入院生活は、どうやって乗り越えましたか?
小澤 私の治療は、抗がん剤を使用する化学療法。入院すると、すぐに抗がん剤の投与が始まり、1カ月治療して1週間一時退院をするというのを計6回くり返しました。最初の1カ月は、体のがん細胞を一気になくすために、強い抗がん剤を使うんです。その分、吐きけなどの副作用も大きいのですが、その治療が私にはしっかり効果があったおかげで、骨髄移植はしないことに。副作用はつらかったですが、今は医学が進歩しているおかげで、副作用の吐きけによく効く薬もあるんです。個人差はあるようですが、私には効果ありでした。最初は我慢して、嘔吐(おうと)してしまいましたが、それ以降は我慢しないで薬に頼り、だいぶラクに過ごせました。
治療を始めて2週間後、聞いていたとおり、髪の毛が抜け始め、1週間くらいでほぼすべて抜け落ちました。髪型をショートヘアにして覚悟はしていたものの、ショックでしたね。でも、髪はまたいずれ生えてくる!命はあるんだから!と前向きに考え、かわいい帽子やウィッグを買って気分を上げて楽しむようにしました。
私が入院している間の子どもたちの食事は、近所に住む義父母がサポートしてくれました。義父母も仕事をしているなか、2~3日に1回、おかずをたくさん作って届けてくれて。夫は18時~19時に帰宅するので、ごはんを炊いて、時間があればおみそ汁をつくって、おかずを盛って娘たちに食べさせて…という感じ。長女は毎日お弁当が必要だったので、毎朝お弁当箱におかずを詰めるのも夫がしていました。
週に1回、私の姉が来てサポートしてくれたり、遠方に住む私の母は食品を送ってくれたり、娘たちだけで過ごす平日夕方の時間帯に電話をかけてくれたりしました。近所に住む、娘たちのピアノ教室の先生も、「いつでも頼ってね」とおっしゃってくださって。周囲からの助けがとてもありがたかったです。
夫の力作キャラ弁!
――闘病も大変だったかと思いますが、娘さんたちとのかかわりで気をつけていたことはありますか?
小澤 離れていても、電話やテレビ電話でたくさん話すようにしていましたが、しんどそうな姿は見せないようにしていました。副作用で体調がつらいときもありましたが、娘たちを不安にさせたくないので、なるべく元気にふるまって、「大丈夫だよ」と伝えるようにしていました。
でも、離れているぶん、娘たちの生活に関しては、何もかも常に心配で(笑)。朝ちゃんと起きられたかな…から始まって、長女のお弁当は大丈夫だったかな…、塾や習いごとに行ったかな…、おやつは食べたかな…って、夜寝るまで一日中心配していました。電話やメールで確認することも多かったです。
夫が毎朝詰めたお弁当の写真をメールで送ってくれていたのですが、その写真が遅れると、「もしかして、寝坊している?」と心配になって。入院中の私は早起きしているので、余計、心配でした。電話をかけたら、みんなで寝坊して、大慌て…なんてこともありました。
髪の毛がない私に、娘たちが「赤ちゃんみたいでかわいいよ」と気を使ってくれて…
――入院生活中に、娘さんたちの成長を感じたことはありますか?
小澤 大変な思いをして、精神的には強くなったのでは…と思いますね。でも、家の手伝いなどはとくにしていなかったようなので、母親の代わりに家事ができるようになったとか、みんなで協力しあったとか、そういう成長はとくになかったような(笑)。私が一時退院して帰宅すると毎回、洗濯ものが山積みでしたし。娘たちにしてみたら、「頑張っていたのに、ひどい!」と言われるかもしれませんが(笑)。でも、いいんです。毎日元気に過ごして、学校に行ってくれている、それだけで十分です。
実は、私が入院している間、長女が少しの間ですが、学校に行けないときがあったんです。学校で突然泣いてしまって友だちに心配されたこともありますし、成績も目に見えてがくんと下がった時期もありました。私の病気のことでショックを与えてしまって、やる気を失わせてしまったのかも…と申し訳なかったですね。
でも、私は離れているから、長女のことを全部わかってあげられなかったし、学校を休んでしまっているときは、私のほうがあせってしまって、テレビ電話で「行きな、行きな」ってせかすように言ってしまっていたんです。今思えば、つらかっただろうな…とかなり反省。
私は長女に対して何かとせかしてしまいがちなので、実家の母から娘に電話してじっくり話を聞いてもらったり、励ましてもらったりもしていました。
あとから知ったのですが、娘は学校を休んでいる間、私のために千羽鶴を一生懸命折ってくれていたんです。夫や二女も協力し、義母や母、姉など、みんなにもお願いして折ってもらっていました。コロナ禍で衛生面的に病室には千羽鶴は持ち込めなかったんですが、家にはずっと飾っています。
二女は、ママが家にいて、ごはんを作ってくれるってことが、当たり前のことじゃないんだ…と思ったらしいです。2年たった今ではもうすっかり忘れているかもしれませんが、そんなふうに感じてくれていたことがうれしかったです。
あと、初めて一時退院したときは、私の髪がなかったので、娘たちがショックを受けないかな…と少し不安だったのですが、二人とも「赤ちゃんみたいでかわいいよ」と言ってくれて。私のことを悲しませないように、気を使ってくれたようで、救われました。生活面での成長は「あったかな…」という感じですが、私を思いやってくれるような、心の成長は感じました。
お話・写真提供/小澤由実さん 取材・文/渡辺有紀子、たまひよONLINE編集部
「娘たちの成長…う~ん、あったかな…」と笑いながら明るく話してくれた小澤さん。「私の入院中にいろいろ支えてくれた夫には退院直後は頭が上がらなかったけれど、今ではだいぶ元どおりです(笑)」とのこと。次回は退院してからの生活のことや、今後の目標などを中心にインタビュー。ぜひcheckしてくださいね。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
小澤由実さん
PROFILE
京都府出身。上智大学文学部英文学科卒業後、株式会社プリンスホテル入社。NHK京都放送局・さいたま放送局キャスターを経て、現在はフリーのキャスター・アナウンサーとして活躍中。高校1年生と小学6年生の2人の女の子のママ。闘病のことや日々の暮らしはオフィシャルブログでも発信中。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●掲載している情報は2024年8月現在のものです。