生後10カ月から始まったてんかん発作。2年間はまるで出口のないトンネルにいるような絶望感。息子がきわめてまれな病気「環状14番染色体症候群」とわかるまで【体験談】
「環状14番染色体症候群」という名前を知っていますか? 国内でも報告が少ない、きわめてまれな病気で、国内で確認されている患者数はわずか21名(2025年1月現在)。まだ指定難病には認定されていない病気です。
東京都在住の小田欽哉さんと弓子さん夫婦は、長男(15歳)、二男(13歳)の4人家族。二男の修司くんは5歳のときに、環状14番染色体症候群と診断されました。
欽哉さんはそんな環状14番染色体症候群の情報を共有・発信するために、患者とその家族のためのコミュニティー「かみひこうきの会」を設立。今回は、修司くんの身体に症状が現れたときのこと、その原因を探った日々など、これまでの育児生活を小田さん夫婦に振り返ってもらいました。全2回のインタビューの前編です。
生後10カ月で突然発作が…てんかんと診断された息子。
二男の修司くんの妊娠経過は順調だったという弓子さん。出産も無事に終え、すくすくと育っていた修司くんですが、生後10カ月のときに起こった突然の発作から生活が一変することに。
「修司が生後10カ月になったころ、突然けいれん発作が起こったんです。朝6時ごろ、長男と修司と寝ていた私は『ガーッ…、ガーッ…』という声に気づいて目が覚めました。隣の修司を見てみると、両手を大きく広げて白目をむいた状態で1秒くらい『ガーッ…』と言ってからふつうの状態にもどる、10秒ほどするとまた同じく手を広げて白目をむき『ガーッ…』と言う、というのを繰り返していたんです。
その様子は明らかにふだんの修司とは違っていたので、すぐ救急車を呼ぼうと思いました。家の近くに私の父母の家があるので、そこに長男を預け、救急車を呼んで近くの総合病院へ。
そこで医師からすぐに『てんかん』だと診断を受けました。病院に行ったあとも発作がおさまらなかったため、発作を抑える坐薬(ざやく)などを使用しながら2週間入院しましたが、なかなか改善せず…。医師から『てんかんの発作としてはちょっとむずかしいケースなので、別の先生に診てもらい判断を仰ぎたい』と告げられ、小児の脳神経内科がある大きな病院へ転院しました」(弓子さん)
まるで出口のないトンネルにいるような絶望感。原因不明のてんかん発作が続いた丸2年の日々
「大きな病院へ転院したあとも、てんかんという診断を受けました。それから退院できたのは1カ月半がたったころ。退院後も相変わらずてんかん発作があり、退院しておよそ1カ月後には、重積状態(けいれん発作が10分続くか、または短い発作でも反復し、その間の意識の回復がないまま30分以上続く状態)になったので、再度救急車で病院に行き、再入院しました。
そのあとも、退院して3日後に再入院、1カ月半後に退院。そしてまたすぐ緊急搬送といった感じで、とにかく入退院を繰り返す日々。
それに、退院といっても発作が完全におさまっているわけではなく、家で発作が起こったときに家族が冷静に対処できるのであれば退院、という感じなんです。発作が出ても、『ちょっと待って大丈夫そうだったらお家で診てあげてください、重積だったら坐薬(ざやく)を入れて救急搬送して入院してくださいね』といった診断があるのみ。でもそのころは家で診られるちょっとした発作というのはなく、発作の再発=重積だったので、発作が起こるたびに救急搬送していました。
そのとき長男は3歳になったばかり。彼にしてみれば、ある日突然祖父母の家に預けられ、私は病院で弟につきっきりに…。わけもわからずストレスも大きかったと思います。そんな状況だったので長男にチック症のような症状が出ることも。『これは私が近くにいないとまずいな』と思いましたが、修司のつき添いもあるので、本当にどうにもならない焦燥感がありました。
そのあとも修司の発作とつきあいながらの生活が続き、ようやく発作が落ち着いてきたのは発症から丸2年たったころでしょうか。
発作が落ち着いてきたとはいえ、ほかにも不安に思うことがありました。というのも、生後10カ月で発作が起きてから止まってしまったかのように、まったく成長が見られなくて…。発作をおさめるために呼吸管理をしたり、眠らされたりすることも多々。刺激が少ないからなのか、それともてんかんが原因なのか…修司はいつも『ぽわん』としている印象で、明らかに覇気がなかったんです。それを見ていた家族みんなが、なんとも言えない不安を抱えていたと思います」(弓子さん)
その当時の気持ちを欽哉さんにも聞きました。
「発作を発症したときは、とにかく修司に対して、『死なないでくれ…!どんなかたちでもいいから生きていてくれ!』というのがいちばんの気持ちでした。
そのころのわが家といえば、妻は修司と一緒に病院につきっきりで入院していて、長男は祖父母の家にずっと住んでいる状態。私が仕事から帰ってきても家にはだれもいない。私はつねに病院や祖父母の家に寄って走り回っていた感じで…。
正直、もうふつうの家族生活はできないんじゃないかって、絶望に近いような気持ちでした。入院生活が長くなって、これまでのような生活が送れない日々が続いていって…。よく“出口のないトンネル”という言い方をしますけど、本当にそんな気分だったんです。修司の発作が落ち着くまでの丸2年ほどは、そんな絶望感を抱いていたと思います」(欽哉さん)
発作は落ち着いても成長が遅い…。てんかん発症から4年後、ようやく病名が判明
修司くんのてんかん発作が初めて出たのは2012年、修司くんが生後10カ月のときのこと。それから4年後、ついに病名が判明します。
「発作の始まりから丸4年。修司が5歳になる直前のことです。多少の入院やてんかん発作はあるものの、薬の調整が安定し、生活も落ち着きを取り戻しつつありました。そんなとき、医師から『染色体の検査をしましょう』という話があったんです。
詳しく聞いてみると、修司の成長が一般的な成長曲線よりも下回っているのは、成長ホルモンの分泌に問題があるためではないかとのこと。早速検査をしたのですが、成長ホルモンに異常は見つかりませんでした。
『成長ホルモンが正常に出ているのに成長が遅いのはどういうことだろう…?もしかして細胞自体に問題があるのでは…?』と主治医の先生が疑問を持ってくださり、さらに染色体の検査をすることに。そこで初めて異常が見つかり、環状14番染色体症候群という病名が判明したんです」(欽哉さん)
息子が大人になる姿を想像してもいいんだ…!病気と向き合う気持ちが生まれた
環状14番染色体症候群は、染色体の構造異常によって引き起こされる、難治性てんかんと発達の遅れなどを特徴とする病気のこと。細胞分裂の際の染色体の分離がうまく行かず分裂できない(または分裂しても生存できない)細胞が生じてしまうため、低身長や発達の遅れ、てんかんなどの原因となることが知られているそうです。
「環状14番染色体症候群は進行性の病気ではなく、命に直接かかわることもありません。診断が出たとき、この病気が原因で直接死にいたることがないということに強く安心しました。
一方で、それまでは『てんかんだったらある程度時間がたてば、今成長が下回っている部分も徐々に健常児に近づき、ふつうの生活も送れるようになるのかな』という期待を持っていたんです。けれど、環状14番染色体症候群は染色体の病気なので、今の医学では治療できない。『成長の遅れもこのままなんだ…』という、これまでとは違った絶望感がありました。
でも、てんかんの発作自体は落ち着いていた時期だったので、開き直った気持ちにれたのも事実です。『そうか、そういう病気ならこの子をこれからどうやってフォローしていこうかな』という方向に意識が向いて。
病名を聞いて、明るい気持ちになったって言ったらそれはちょっと違うんですけど…。開き直りという言葉がいちばん合っている気がします(笑)。この子の将来をどう考えていこうか、この病気と向き合っていく気持ちが生まれました」(欽哉さん)
弓子さんも環状14番染色体症候群との診断を受け、ショックと安堵(あんど)の両方の気持ちを抱いたそうです。
「診断が出て、一生つき合わなきゃいけない病気なんだと知ったときは涙がポロッと出ました。
ですが、診断が出て詳しい症状を聞いたときに真っ先に浮かんだのは、『修司が大人になる姿を想像してもいいんだ…!』ということ。修司がてんかんを発症してから、いつか急変して死んでしまうかもしれないという不安をずっと抱えていたので、長男と同じように、一緒に大人になれると安堵(あんど)したのをよく覚えています。
それに、病名がわかるころには、発作も生活も気持ちも落ち着いてきていて、家族4人でひとつ屋根の下で過ごせるという当たり前のことに、いちばんの喜びを感じられるように。これまでの発作は本当にたいへんでしたが、気持ち的にはひとつ乗り越えていた時期だったと思います。
『もうどんな障害だろうと何だろうと、私たち家族なら乗り越えて絶対幸せになる!』みたいな自信を持てていたんです」(弓子さん)
言葉はなくても、つながる気持ち。ハンドサインや語尾でのコミュニケーションが楽しい!
環状14番染色体症候群は、てんかんの症状とともに、ほぼすべての人に発達の遅れと言葉の問題が生じるそう。修司くんも例外ではありません。
「言葉は全然出てこないんですが、意思の疎通はできています。本人がしゃべれないというだけで、こちらから言ったことはほぼ理解できていますし、修司の伝えたいことも手話や独自のハンドサインで伝えてくれるんです。もちろん意思が伝わりづらいときもあるんですけど、なるべくくみ取って、修司の希望にそって楽しく生活をしてもらいたい。
最近修司が見せてくれるようになった独自のハンドサインは『ハンバーグ』です。『どこにごはんを食べに行きたい?』と聞いたときに、『わぁっ!』と両手のひらをパーにして驚かすサインをしてくれるのですが、このサインがハンバーグ(“びっくり”ドンキー)に行きたいという意思表示なんです。
あと、ちゃんとした単語を発するのはむずかしいんですが、言葉の語尾を母音で言うことができるんです。たとえば野球だったら『う〜』とか。カラオケも全部語尾で歌うんですよ!歌が大好きで、車の中で聴いた曲や、家でよく聴く曲は全部覚えているほど。『残酷な天使のテーゼ』なんか語尾で全部歌ってくれます(笑)。だから私たちも語尾で伝えて、修司からも語尾で返答してもらうなんてことも。
修司に対して思うことは、とにかくのびのびと毎日楽しく生活してくれたらそれでいいということ。私たちは、こうしてハンドサインや母音で修司とのコミュニケーションが少しずつ増えていくのがうれしいし、楽しいです」(欽哉さん)
お話・写真提供/小田欽哉さん、弓子さん 取材・文/安田萌、たまひよONLINE編集部
修司くんの突然の発作から、環状14番染色体症候群という病気と向き合い続けてきた小田さん家族。たいへんな時期を乗り越えてきたらからこそ、前向きに明るく話すご夫婦の姿が印象的でした。夫の欽哉さんは修司くんを温かく見守りながら、環状14番染色体症候群の患者と家族のためのコミュニティー「かみひこうきの会」の代表も務めています。後編では、家族会を立ち上げた経緯や活動への思い、そして修司くんの現在についてお話を聞きました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
小田欽哉さん
PROFILE
2019年に環状14番染色体の患者と家族の会「かみひこうきの会」を設立。当事者とその家族が暮らしやすい世の中をめざして、交流会の開催やSNSでの情報発信、病気に関する相談支援、指定難病に向けた活動などを行っている。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年1月の情報で、現在と異なる場合があります。