元TBSアナ・高野貴裕。長女が先天性ミオパチーと診断。「どうしてうちの子が…」と悔しい思いも。だからこそ、娘との時間を全力で楽しみたい
元TBSアナウンサーで9歳の娘を育てる父でもある高野貴裕さん。2024年秋、妻で俳優の星野真理さんとともに、娘が国指定難病「先天性ミオパチー」であることを公表しました。高野さんに、妻との出会いから、娘が生まれ、診断がつくまでのことを聞きました。全2回のインタビューの前編です。
妻の妊娠がわかったとき、喜びで涙が出た
――俳優の星野真里さんとは大学の先輩後輩だそうです。出会いのきっかけを教えてください。
高野さん(以下敬称略) 妻は同じ大学のフランス文学科の後輩です。在学中、もちろん僕はすでに俳優として活躍していた妻のことを知っていましたが、当時は顔見知り程度の関係でした。僕がTBSに入社してアナウンサーの仕事を始めたあと、共通の友人と一緒に食事をする機会があったことがきっかけで、その後何度か食事に行くように。
話していてとても楽しかったし、誠実でていねいに生きているすてきな人だなと思いました。そして、9年間の交際期間を経た2011年、妻が30歳のときに結婚しました。僕がアナウンサーとして経験を積んで視聴者のみなさんに認知されるまで待っていてください、とお願いして、結婚を待ってもらっていたんです。
女性にとっては出産などのタイミングもあるので申し訳なかったですが、妻は僕が自分の仕事に納得するまで待っていてくれて、とてもありがたかったです。結婚から3年ほどして妻の妊娠がわかったときは本当にうれしかったし、涙を流して喜びました。
――妊婦健診は一緒に行きましたか?
高野 初回の受診から、可能な限りほぼ毎回、一緒に妊婦健診に行きました。僕にとって産婦人科は未知の世界で興味津々。アナウンサーという当時の仕事の面からも、さまざまな情報に触れることが必要だと思ってもいましたし、そもそも好奇心が強いタイプです。
産婦人科の待合室に置いてあるいろいろな資料などを読んで、おなかの赤ちゃんの成長のことや、破水したときの対応方法などをしっかり予習しました。
診察では、赤ちゃんが少しずつ大きくなっていく様子をエコーで見て人間の神秘を感じましたし、毎回新しい発見と喜びがありました。いよいよ父親になるのか、という覚悟も感じながら幸せに満ちた日々でした。妻は妊娠中はつわりもほとんどなく、妊娠経過もとても順調でした。安定期に入ってからはよく一緒に散歩に行きました。2人でいっぱい歩いたなぁ。
生放送のMCで出産に立ち会えず・・・
――性別は妊娠中にわかっていたのでしょうか?
高野 妊娠中に3Dエコーを撮ったときに、女の子だと聞きました。3Dの画像に写った娘の顔は、鼻が高くて陶器のお人形のようにきれいでした。僕は写真を見るなり「美形だね〜!」って感動して、すでに親バカ街道を爆走していましたね(笑)。妻は男女どちらでもいいと言っていましたが、僕は女の子がよかったので、さらにうれしかったです。
――そのころから名前の候補も考えていましたか?
高野 はい。妊娠中から僕がいくつか候補の名前を考えて妻にプレゼンをして、相談した結果“ふうか”と名づけることに。名前の漢字には、人に手を差し伸べ、差し伸べられる人になってほしい、そして華やかな人生を送ってほしいといった思いを込めました。
――2015年7月に妻が出産。陣痛時はどんな状況でしたか?
高野 もうすぐ予定日というある日の夜、22時ごろから陣痛が始まり、そして破水したんです。破水したらできるだけ安静にしながらすぐに産院に、ということは予習して頭に入っていたので、僕はペットシーツで破水した水を処理しつつ、産院に電話連絡をして向かいました。入院後、陣痛に苦しむ妻にゼリー飲料やスポーツドリンクを飲ませたり、おにぎりを食べさせるなどサポートに徹しました。僕は僕のやれることをやらないと! と必死でした。
分娩方法は自然分娩でした。実は僕は、妻に無痛分娩をすすめたんです。周囲の出産経験のある女性たちから「自然分娩の痛みは想像を絶する」と聞いていたから。でも妻は陣痛をへての出産を経験したいと自然分娩を選びました。
――出産には立ち会えたんでしょうか?
高野 それが、当時僕は早朝の情報番組のMCをしていたんです。オンエアに間に合うギリギリの時間まで妻のそばにいて、後ろ髪を引かれる思いで会社へ行きました。僕と入れ替わりで妻のお母さんが来て、出産に立ち会ってくれました。
本当はいけないことですが、その日だけは携帯電話をスタジオに持ち込むことを許してもらって、オンエア中に合間を見つけてはチェックしていました。すると妻のお母さんから「今生まれました」と連絡が。うれしいな、早く会いたいな、とはやる気持ちを抑えつつオンエアを終えてすぐに局を出て産院に駆けつけました。
――赤ちゃんに会って、どんなことを感じましたか?
高野 病室に入ってすぐ、妻に「ありがとう、おつかれさまでした」と感謝を伝え、「立ち会えなくてごめんなさい」と謝りました。
生まれた娘を初めて抱っこするとき、小さくてこわれそうでこわかったです。でもとてもあたたかく、胸にじんわりと喜びが広がるようでした。あの瞬間が僕の人生のターニングポイントになったかもしれません。父性愛というのかどうかわかりませんが、「この子を、家族を守らなくては」と決心をしたのを覚えています。
生後6カ月で先天性ミオパチーの疑いと言われ、絶望の底に
――ふうかさんが低月齢のころから発達の様子が気になり始めたそうです。どんな様子だったのでしょうか?
高野 生後3〜4カ月くらいで首がすわり始めると思うんですが、娘はなかなか首がすわらず、全体的に筋力が弱い感じがありました。泣く声も小さくてかぼそい感じなんです。生後6カ月健診のときに相談したら、小児総合病院での受診をすすめられ紹介状をもらいました。
その病院での診察で、初めて国の指定難病の「先天性ミオパチー」の可能性があると判明したんです。帰宅してすぐにインターネットでいろいろと調べると、治療法がないことや、予後のことなどネガティブな情報ばかりが目につきました。「どうしよう。なんでわが家にこんな不幸が・・・」と絶望の底に落とされた気分でした。
――その後病名が確定したのは、ふうかさんが2歳のころだったとか。
高野 診断の確定には、筋生検という筋組織を採取する検査が必要とのことで、ふうかが2歳になってから筋生検を受けました。先天性ミオパチーにもいくつかの種類があって、筋生検によりどんな症状や障害があるのかがわかります。ふうかの場合は先天性ミオパチーの一種の「中心核ミオパチー」だとわかりました。
医師の説明では、中心核ミオパチーは「人より成長速度は非常に遅いが、ゆるやかに成長曲線を描く」という説明でした。先天性ミオパチーの中にも本当にいろいろな症状や障害のものがあるようなのですが、「進行性ではない」とも聞き、少しほっとしました。とはいえ、人よりずっと筋力が弱く、治療法がないという現実に、とても悔しい思いがしました。
――病名が確定するまでの1年半、不安だったのでは?
高野 不安しかないです。日々、希望を見つけようとすがる思いでした。娘が少しでも寝返りがうてそうな気配があれば、「やっぱりミオパチーじゃなくて成長がゆっくりなだけなんじゃない?」と不安を打ち消そうとしたこともありました。
娘は握力はあるんですが、腕や足を上げる力がなく、おもちゃを持ち上げることもできません。娘の成長によって筋力の弱さを実感し、「やっぱり障害があるんだな」と少しずつ納得していきました。
正直「どうして自分の娘が・・・」と悔しい思いは今でもあります。でもそればかり考えてもしかたがありません。だったらその分娘との時間を全力で楽しみたいと思うんです。
――Instagramでは、ふうかさんと一緒にさまざまなチャレンジをする様子が投稿されています。
高野 娘を背負っての山登りや、介助しながらの外遊びなど、僕自身が楽しいからやっています。家族の楽しい思い出づくりは大事だと思うので、今後も娘と一緒にいろんなことに挑戦していきたいです。
お話・写真提供/高野貴裕さん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
手先が器用だというふうかさんの将来の夢は、パティシエかイラストレーターになることなのだそう。高野さんは「彼女にやりたいことがあるなら、環境を整えたり、人に助けを求めたりなど、できるだけのサポートをしていきたい」と笑顔で話してくれました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
高野貴裕さん(たかのたかひろ)
PROFILE
1979年生まれ、福島県いわき市出身。青山学院大学文学部仏文科卒業後、2003年アナウンサーとしてTBSに入社。報道・情報・バラエティなど、幅広いジャンルのテレビ番組へ出演。2011年結婚、2015年第1子女児が誕生。2025年1月末でTBSを退社し、障害のある子どもと家族のために福祉情報を発信する団体「wappo」の代表を務める。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年2月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。