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元タカラジェンヌ・天咲千華、父親は相撲部屋の親方。4500gの巨大児で誕生し、「私だけが太ってる」「やせないと幸せになれない」と悩んだことも

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天咲さん七五三のときの写真。逆鉾関が井筒部屋を継承した年でもあり、このころから天咲さんの相撲部屋出の生活が始まったそう。

元タカラジェンヌで、現在はヨガインストラクターとして活動している天咲千華さん。故・井筒親方(元関脇逆鉾)の長女として生まれ、幼少期は相撲部屋で生活をしていました。相撲部屋で育った天咲さんがどうしてタカラジェンヌをめざすことになったのでしょうか? 子どものころのことから、宝塚音楽学校に合格するまでの話しを聞きました。全3回インタビューの1回目です。

実家は相撲部屋、約20~30人の力士と一緒に暮らす、特殊な環境だった

赤ちゃんのころの天咲さん。

――実家が相撲部屋だったということですが、どんな幼少期を過ごしましたか?

天咲さん(以下敬称略) 私が小学1年生のときに父(故井筒親方/元関脇逆鉾)が祖父から相撲部屋を受け継ぎ、親方になりました。そこから相撲部屋の娘としての生活が始まりました。
地方巡業があるので父は1年の半分以上は家にいない生活ではありましたが、父が関取のころは一般的な家庭となんら変わりはなかったように思います。父が親方になる前はマンションで家族と暮らしていました。

――親方になってからはどうでしょうか?

天咲 父が親方になることが決まってからは、両国の井筒部屋に母と一緒に引っ越しました。そこからお相撲さんとの共同生活が始まりました。私たちの居住スペースと相撲部屋はだれでも行き来できる環境だったので、お弟子さんたちと家族のように生活していました。共同生活です。

――学校から下校後、お相撲さんに遊んでもらうようなこともありましたか?

天咲 両親がそろって外出のときはちゃんこ場で一緒に食事をしていました。

部屋の力士とはきょうだいのような関係だった

天咲さん30歳のころ。千秋楽のパーティの日、お客様をお見送りした後に撮影した貴重な家族写真だそう。

――いろんな相撲部屋があるかと思いますが、アットホームな雰囲気だったのですね。

天咲 私も大人になってほかの相撲部屋の様子を聞く機会がありましたが、当時の井筒部屋は本当に家族のような雰囲気だったと思います。私が両国に引っ越してきたとき、父がお弟子さんたちに私のことを紹介する際、「娘ではあるけれど、なにか間違ったことをしたら遠慮なくしかってほしい。そして、きょうだいのように接してほしい」と話していたことを覚えています。

――ではお父さんの言うとおり、部屋の力士たちとはきょうだいのように過ごしていたわけですね。

天咲 私はひとりっ子だったので、本当にたくさんの兄に囲まれて子ども時代を過ごしました。学校の宿題を教えてもらったりもしました。お城マニアのような歴史に強い力士さんがいて、その方に社会を教えてもらったり、床山さんにまげの歴史とか結い方とか聞いて、実際に使うひもなどを見せてもらい夏休みの自由研究にしたりしていました。

――幼少期、天咲さんはどんな子どもでしたか?

天咲 とにかくおとなしくて恥ずかしがり屋で、人とあいさつするのがやっとという子どもでした。人前に立って歌って踊るなんてまったく得意ではなかったので、私が宝塚をめざしたいと母に相談したときは驚いていました。

父の「娘だけをかわいがるわけにはいかない」発言にドキリ

天咲さん3歳のころ。公園で遊んでいたときの1枚です。

――両親の教育で印象に残っていることはありますか。

天咲 力士のみなさんときょうだいのように過ごしてきましたが、それでも私は親方の娘なので、みんな気をつかっていたと思います。だからこそ、父からは「私たちがこうして生活できているのは力士のみなさんのおかげ。彼らに感謝の気持ちを忘れないように。そして、ほかの部屋の力士を含め、力士へのリスペクトを忘れないように」と言われました。

――お父さんは謙虚な気持ちを忘れないように教えてくれていたんですね。

天咲 父が親方になったときにもこんなことを言われました。「お弟子さんはみんな、親元を離れて集団生活を頑張っているんだよ。両親や故郷が恋しい環境の中で切磋琢磨しているからこそ、自分だけが娘をかわいがることはできない。だから、今日からはこれまでのようにかわいがれないかもしれない」と言われたことを鮮明に覚えています。

――それはお父さんの親方としての宣言ですね。

天咲 まさにそうです。「親方という立場になったからには弟子たちを優先する」とはっきり宣言されました。今は父の考えは理解できますし、むしろ尊敬に値します。しかし当時の私は驚きと悲しみ、そして反発心と自立心のようなものも芽生えました。親元を離れてこそ一人前なんだ、と思ったんです。「いつか私もこの家を出る」と強く思いました。そこから宝塚という世界に強く魅かれていったのかもしれません。

――宝塚以外にも親元を離れる方法はあったかと思いますが、なぜ宝塚だったのでしょうか?

天咲 小さいころからテレビでよく宝塚を見ていました。その影響でバレエも3歳から習い始めました。ある日、宝塚を密着するドキュメンタリー番組を見る機会があり、そこで寮生活をしている女の子たちの姿を見て、私も親元を離れてここで寮生活がしたいと思うようになりました。
子どもだったので宝塚しか選択肢がなかったという理由もありますが、ドキュメンタリー番組を見たことで宝塚の世界にぐっと引き寄せられたように感じています。

――相撲部屋で生活していた天咲さんが宝塚の世界へ魅かれていった理由がわかりました。

天咲 心の中には私もお弟子さんたちのように親元を離れて生活したら父に認められるかもしれない、という気持ちがあったのかもしれません。中学2年生のころには宝塚の受験を真剣に考えるようになり、専門のスクールにほぼ毎日通い、レッスン漬けの日々でした。そして高校1年生のときに受験をしました。運よく一度の試験で合格することができたので、高校2年で中退をし、宝塚音楽学校へ入学しました。

バッシングも覚悟の上で宝塚音楽学校に入学

宝塚歌劇団での娘役の天咲さん。

――天咲さんの合格を知ったお父さんはどんな様子でしたか?

天咲 父は私が宝塚に受からないよう、相撲部屋から宝塚に行かないように、ってずっと願掛けをしていたみたいです(笑)。とはいうものの、合格発表の日、私は母と一緒に現地に合格発表を見に行っていましたが、母に1分置きに連絡をして「まだか?」「どうだったんだ?」と聞いていました。合格したら寂しいけれど、落ちて落ち込む姿も見たくないという気持ちがあったようです。
私はそんな両親のやり取りを横で見ていたので学校の前で自分の番号を目にした瞬間も妙に落ち着いていました。そこから父の落ち込みようはひどかったですね(笑)。私が宝塚を志したのは母のせいだと思っていたようで、しばらく母と口をきかなかったようです。

――狭き門を突破し、宝塚音楽学校入学が決まった瞬間のお気持ちを聞かせてください。

天咲 私は「よし、受かった」と静かにガッツポーズをするような気持ちでした。でもこの瞬間から新しい世界が始まるんだと身が引きしまる思いでした。と言うのも、受験する前から専門スクールの恩師からは父の名前があるので、合格したらバッシングに合うかもしれない。でも気持ちを強く持って、負けないで!と励ましてもらっていました。だからある程度のバッシングのようなものは入学前から覚悟はしていました。今もその恩師にはいろいろと相談に乗ってもらったり、助けてもらったりしています。

――「天咲千華」さんの名前の由来を聞かせてください。

天咲 音楽学校時代の本科生のときに名前を提出するのですが、そのときに自分で決めました。好きな漢字を並べて直感で決めました。

――親元を離れて寮生活が始まってから、いかがでしたか。

天咲 恩師が心配してくれたように、父親の名前のおかげで入団できたんじゃないかと思われているかも? という思いはずっとありました。宝塚って本当にみんなきれいでかわいくて、細いんです。私は自分の顔に対してもコンプレックスがあったし、私だけが太っている・・・って思ってしまって。10代の多感な時期だったということもあるとは思うのですが、舞台に立つことはもちろん好きだけれど、矛盾しているけれど、見られたくないな、って思いも同時にあるんです。
あの子だけ太っていてかわいくない、と思われているんじゃないかと、「私なんか」と激しく落ち込む時期が続きました。私、出生体重が4500gだったそうなんです。それから相撲部屋でちゃんこ鍋を力士と一緒に食べていて、太りやすい体質だったと思うんです。

――そこからどんなふうに気持ちを奮い立たせていったのでしょうか?

天咲 後ろ向きな気持ちは続いていましたが、それでもお芝居が好きという気持ちは変わらずにあったので、とにかくお芝居に真摯に向き合おうと思うことにしました。その結果、試験のときに演技を認められ、表彰していただきました。実力を認められたようで本当にうれしかったです。そこからコンプレックスを少しずつはねのけることができたような気がします。

お話・写真提供/天咲千華さん 取材・文/安田ナナ、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>第2回

実家が相撲部屋という特殊な環境で育った天咲さん。両親の愛情に囲まれながら、早めでの自立の道を選んだのは、井筒部屋のお相撲さんたちの存在があったそう。宝塚では男役から女役に転向し、活躍を続けました。

インタビューの2回目は、宝塚の退団とその後の摂食障害などについて聞きます。

天咲千華さん(あまさきちはな)

PROFILE
1987年生まれ、東京都出身。2006年宝塚歌劇団に92期生として入団する。入団したその年に『NEVER SAY GOODBYE 』で初舞台を踏む。2011年に退団した後は、ヨガインストラクターとした活動を開始。2021年には志摩ノ海関と結婚し、現在は1児の母。プロデュースした商品には柔ら美人シリーズ『開脚ベター』『股関節ショーツ』があり、シリーズ累計4万個売り上げ。著書に『タカラジェンヌの身体になりたい(祥伝社)』がある。

天咲千華さんのHP

天咲千華さんのInstagram

●記事の内容は2025年7月の情報で、現在と異なる場合があります。

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