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「あれ、これは“がん”だな…」結婚してわずか1週間後に告げられた、子宮頸がん。妊娠・出産の可能性が閉ざされ、後遺症と戦う日々の中…【体験談】

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「入籍直後に病気が判明したことで、一時は結婚式も延期となりました」(河村さん)

静岡県庁で広報の仕事に携わる河村裕美さんは、1999年7月、32歳のときに子宮頸がんと診断されました。がんが見つかったのは、結婚からわずか1週間後。これから子どもを持ちたいと願っていた矢先のことでした。
術後は、さまざまな後遺症に悩まされる日々。そんな中で「同じ立場の人と本音で語り合い、支え合いたい」との思いから、女性特有のがんの体験者や支援者をつなぐ団体「オレンジティ」を設立。のちに認定NPO法人となり、活動の輪を広げてきました。
一方で、10年前には特別養子縁組で女の子を迎え、母としての毎日も歩んでいます。

全2回のインタビュー前編では、がんが見つかった経緯、「妊娠できない」という現実とどう向き合ったか、後遺症についてなどを聞きました。

入籍の直後に、まさかの「子宮頸がん」との診断

子宮頸がんの手術をしてから26年、さまざまな場所で自らの体験談を語ってきた河村さん

河村さんが子宮頸がんと診断されたのは、1999年7月。結婚した直後のことでした。

「当時は健康そのもので、気になっていたのは『生理が少し重い』ことくらい。ただ、痛み止めを飲めば日常生活に支障もなく、女性ならよくあることくらいに思っていたんです。
結婚した翌日くらいに、夫に何気なく生理が重い話をすると、『一度病院で診てもらえば?』とすすめられました。それを聞いて『今後は子どもも欲しいし、一度行ってみようかな』と思い立ち、週明けに仕事の合間を縫ってインターネットで見つけた産婦人科へ行くことにしました」(河村さん)

内診台に上がって検査を受けた河村さん。カーテン越しの医師から思いもよらぬ言葉を聞くことになりました。

「先生が『あれ、これは“がん”だな』とつぶやいたんです。私にとってそれが最初の“がん告知”でした。そして内診後に先生の前に座ると、改めて『子宮頸がんです。子宮と卵巣を取ることになるかもしれません』と告げられたんです。
でも正直、その言葉をすぐには信じられなくて…。だって痛くもかゆくもないんです。それに、これまで大きな病気をしたことがなく、『自分は健康だ』という根拠のない自信もあった。『先生の見立てが間違っているんじゃないか』と思いました」(河村さん)

医師は河村さんに「1週間後に確定診断を出すので、ご家族と一緒に来てください」と伝え、河村さんは翌週にもう一度、病院へ出向くことになりました。

夫に迷惑をかけないよう、離婚をしようと思った

約束の1週間後に夫と一緒に病院に行くと、医師から改めて「子宮頸がんの1b期だと思います」と告げられました。

「子宮と卵巣を摘出するしかないと。その言葉を聞いて、ようやく“自分は本当にがんなんだ”と実感しました。
医師に『セカンドオピニオンを受けたい』と申し出ると、すぐに東京のがんの専門病院を紹介してもらえ、その場で紹介状と予約の手配をお願いできることに。翌週には上京して受診をすることが決まりました」(河村さん)

淡々と物事が進んでいく中、河村さんの頭に浮かんだのは、自分の病状よりも、病気になったことで起こる周囲への影響でした。

「『仕事はどうしよう』『結婚したばかりなのに夫に申し訳ない』『家族にどう伝えよう』…そんなことばかりが頭をよぎりました。
母に電話をし、『子宮頸がんで、子宮と卵巣を取らないといけないみたい』と伝えると、それまで黙って聞いていた母は開口一番『とりあえず、離婚しなさい』と言ったんです。
私と夫はまだ結婚したばかり。母は『相手に迷惑をかけてはいけない。お父さんと私であなたの面倒は見るから、今のうちに戻ってきなさい』と言いました。
私も、それもそうだと納得したんです。この先どうなるかわからない自分の人生を、結婚したばかりの夫に背負わせたくない…今のうちに離婚しよう…と。
ただ、夫にその意思を伝えると『今はがんも治る時代だよ。子どもがいない家庭だってたくさんある。一緒に生きていこうよ』と。あくまで冷静に彼はそう言ってくれました」(河村さん)

子どもが欲しかったが、いっさいの可能性はきっぱりと捨てることに

翌週に東京へ向かい、セカンドオピニオンを受けました。改めて検査しましたが、その結果も「子宮頸がん1b期」。さらに、抗がん剤などの化学療法や放射線の効果が出にくい「腺がん」でした。そのため、子宮と卵巣、周辺のリンパ節まで切除する広汎子宮全摘手術でがんを取り切るしかないと医師に告げられ、手術日も決まりました。

7月4日に結婚し、11日に確定診断。18日に東京へ向かい、月末に入院。ちょうど結婚した1カ月後の8月4日に手術…あっという間の出来事でした。

「当時、頭の中にあったのは“どうにかして子どもを持てないだろうか“という思いです。がんに関する知識もなく、1期ならまだ初期だし『今から頑張って子どもを授かり、産んでから手術できないでしょうか?』と先生に尋ねました。
だけど先生は『若い分、進行が早い。半年から1年であっというまに末期になる可能性があるし、その計画は現実的ではありません』と言ったんです。
そこで当時、自分で調べた卵子や受精卵を凍結する方法も相談しました。ですが『日本では代理出産が認められておらず、もし望むなら海外での治療になる』と…。
すごくお金もかかるし、何よりもこれから自分の体がどうなるかわからない。そんな不確かな未来を、夫や生まれてくる子どもに背負わせていいのだろうか。もし卵子を残したら、それを理由に夫が離婚できなくなったり、自分自身が無理をしてしまったりするかもしれない…。

“そんなことはしたくない。ここで区切りをつけよう…“。とても悩みましたが、きっぱりそう決めて、妊娠の可能性を追い求めることはやめることにしました」(河村さん)

不安に襲われた退院後。このままではいけないと予定より早めの復職を果たした

手術後、1カ月の入院生活を経て、9月に退院。医師からは半年ほどの自宅療養をすすめられましたが、退院して2カ月後には職場に復職することに。

「家でじっとしていると不安ばかりが募るんです。手術前の痛みがないときは『本当に自分はがんなの?』と思うくらい実感がなかったのに、手術後は傷などの痛みがあることで恐怖が増幅し、余計なことを考えてしまう。

テレビを見ても新聞を読んでも、「がん」という言葉を見つけては、怖くなっていました。またちょうどそのころ、『余命半年の花嫁』という乳がんを患った若い女性が主人公の連続ドラマが放映されていた時期で。
そのドラマを見て、自分が死ぬことはいいとしても、それによってまわりにこれだけの影響を与えるのかと思うと、病気になった自分への罪悪感に押しつぶされそうになりました。こんなことばかりを考えていたら心が壊れてしまう…そう思い、職場に11月に復帰することを決めたんです」(河村さん)

一生続く、数々の後遺症。がんを切除して終わり!ではなかった

こうして仕事に復帰した河村さん。一見、通常の生活に戻ったように見えましたが、手術後の後遺症はその後の生活に長く影を落としました。

「手術の際にリンパ節を一緒に除去したため、毎日のように足がパンパンにむくむようになってしまったんです。
また、腟の近くの尿意をつかさどる神経を切ってしまったことで、尿意を感じられなくなる排尿障害も起きました。尿意がわからないので、アラームで時間を知らせてトイレに行くようにしましたが、年を重ねた今は指がふるえると『あ、そろそろトイレだな』と別の体のサインでわかるようになっています。
直腸の神経を触ったことによる排便障害もあります。これらの障害は手術後26年経っても変わらず、一生続く後遺症となりました」(河村さん)

さらに、卵巣を失ったことで女性ホルモンの分泌が止まり、32歳という若さで“卵巣欠落症候群”による更年期のような症状も現れました。

「ホットフラッシュが起きたり、目の前で何かがぶんぶんしていたり(飛蚊症)、頭痛やめまいがしたり。入院中から始まって、いろいろな症状が日替わりで起きました。髪が抜けたり、爪が割れたり、おなかのまわりに浮輪のような肉がついてきたりと、見た目にも影響していきましたね」(河村さん)

この女性ホルモンの喪失は、パートナーとの生活にも大きな影響を及ぼすことに。

「夫に対して驚くほどヒステリックに怒ってしまうんです。あとから冷静になると、どうしてあんなに怒ってしまったんだろう?と思うくらい。夫は私がそうなる理由を理解してくれているんですが、それでもきっとつらかったと思います」(河村さん)

また、性生活への影響もありました。

「腟の一部を手術で切っているので、腟が短くなっていて。女性ホルモンが分泌されなくなったため腟の潤いが失われ、痛くてたまらない。そもそも性欲だって起きません。これらをお医者さんに聞いても『腟は筋肉だから伸びますよ』なんて言われるけど、まずそういう気分にならないし、すごく痛いから、ますます萎縮してしまう。
私の場合は、手術を受ける前、先生から“これから起こり得る性の問題”について説明を受けました。そのときに夫と2人きりで話す時間をもらったんです。わずか15分ほどの短い時間でしたが、あのとき本音で向き合えたことは本当によかったと思います。しかし、手術前にそうしてパートナーと話し合えている人は少ないですね。

こうした性交障害の本当のところって、医療者から伝えられていることと現実にギャップがあるんです。子宮頸がんの経験者の中では盛り上がる話題ですが、当時ネットで検索しても、リアルな情報はいっさい出てきませんでした。

私自身、後遺症のことで悩んでいたある日、夫が『東京で女性の婦人科がんの患者会ができたみたいだよ』と職場にあった新聞記事のコピーを持って帰ってきてくれたんです。それを読んで、行ってみようかなと思いました。夫には同じ立場の人と話してみたいなんて言ったことはなかったけれど、それとなく察してくれたのかもしれません」(河村さん)

地元の静岡で婦人科がんの患者会を設立することに

オレンジティの「おしゃべりルーム」では経験者しかわからない後遺症に関する話題で盛り上がります。

東京で開催された患者会に参加した河村さん。とても充実した時間を過ごせました。

「今まで話せなかったことや、疑問に思っていたことを人に聞くことができたんです。
でも、場所は東京だし、年齢層も高めだったので、自分の住む静岡で、同じ悩みを抱える人たちと支え合っていきたい、何より自分自身が助かりたいという気持ちで人を募りました。広報の仕事をしていたので、会を主催するノウハウはあったんですね。
すると、思った以上に同じ思いを持つ方の参加がたくさんあり、婦人科がんの患者会を立ち上げることに。名前は静岡の名産である“みかん”と“お茶”、これをつなげて、“オレンジティ”と名づけました」(河村さん)


お話・写真提供/河村裕美さん 取材・文/江原めぐみ、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>後編


公務員として広報の仕事を続けながら、「オレンジティ」の活動を精力的に続けてきた河村さん。2011年には認定NPO法人の認証をされ、現在は参加者が集まって話す「おしゃべりルーム」のほか、専門家を呼んでのセミナーや子宮がん検診の啓蒙など幅広い活動を行っています。
さて次回の後編では、河村さんが“母”として歩んできた10年をたどります。特別養子縁組で出会った娘さんの子育てについてお話を聞きました。

河村裕美さん

PROFILE
1992年静岡県庁入庁。県広報局に在籍している。1999年7月に32歳で結婚し、1週間後に、子宮頸がんを診断される。術後、さまざまな後遺症に悩んだ経験から、患者のサポートの重要性を認識。2002年にがん患者会、女性特有のセルフヘルプグループである「オレンジティ」を設立。2011年に認定NPO法人の認証を受け、理事長を務める。2015年に特別養子縁組で一児の母となる。

オレンジティの公式サイト


●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年11月現在の情報であり、現在と異なる場合があります。

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