麻疹に感染した子どもに約10年後に発症…SSPEと診断された二男。麻疹の後遺症の脳炎と向き合う家族。「この世から麻疹がなくなってほしい」【体験談】
稲田春樹さん(仮名・20歳)さんは、1歳になる直前に感染した麻疹の影響で、9歳のとき亜急性硬化性全脳炎(あきゅうせいこうかせいぜんのうえん・以下SSPE)を発症。徐々に体の機能が衰え、今は自分で動くことができず、コミュニケーションもほぼとれなくなりました。
母親の智子さん(仮名)と父親の和夫さん(仮名)に聞いたインタビューの後編は、入院生活を経ての在宅ケアや、春樹さんの学生時代のこと、現在のことなどについてです。
薬の効果を期待するも、日を追うごとに症状が悪化していることを感じる
――小学校4年生の春に、SSPEの確定診断を受けた後、どのような治療を行ったのでしょうか。
智子さん(以下敬称略) 病原体の増殖を抑制する作用のあるインターフェロンを、体外からカテーテルを通して脳内に投与する治療を行うことになりました。そのためには、「オンマイヤリザーバー」という医療装置を脳室内に埋める手術が必要です。
春樹の頭に穴をあけるなんて、かわいそうでなりませんでしたが、この治療で少しでもよくなってほしいと祈るような気持ちで、手術室に送り出したのを覚えています。
――智子さんには、ほかにも試してみたい治療法があったとか。
智子 SSPEの治療についていろいろな資料を調べた中で、気になったのはリバビリンという抗ウイルス薬を脳内に投与する方法です。すぐ主治医に相談したのですが、この病院では認可するのに時間がかかってしまうとのこと。リバビリンの投与は早く行ったほうが効果が期待できると書かれており、今すぐ薬を使ってほしい!とあせりました。
なんとかならないかと主治医に何度もお願いしたところ、認可が早く下りる病院を教えてくれました。そこで、現在かかっている総合病院に申請を出し、認可が下りるまでの間、その病院に転院して治療を行う、という方法を取ることにしたんです。
薬が効いてほしい。毎日そのことしか考えていませんでした。
和夫 3カ月後にやっと総合病院での認可が下りたので総合病院に戻り、インターフェロンとリバビリンの投与を続けました。不随意運動が少し減ってきたのを見て、薬が効いていることを感じましたが、知的な能力が下がっているのは、私が見てもわかるほど。しかも、物事に対する意欲や表情も乏しくなる一方で、毎日二男の様子を見ていて、やりきれない気持ちになりました。
長男に「弟は難病を患っていて、今までの生活には戻れない」と話す
――春樹くんの入院には付き添ったのでしょうか。
智子 付き添いました。春樹が入院している病院は私の勤め先でもあったんです。病室のある階と仕事場のある階を移動するというような生活でした。
仕事が終わると春樹が入院している小児科病棟に行き、春樹と一緒に過ごすんです。小児科病棟は付き添いの保護者もシャワーを使わせてもらえたので、夫が会社帰りに病院に来てくれて、春樹を見てもらっている間に、私は入浴と夕食を済ませていました。食事はたいてい売店で買ったお弁当やレンチンできるレトルト食品でした。
今思うと、栄養バランスが悪く、睡眠不足の不健康な生活でしたが、気を張っていたからか、体調を崩すことはありませんでした。
――長男には春樹さんの様子をどのように伝えたのでしょうか。
智子 春樹が入院治療を始めて1カ月くらいたったころ、長男に春樹の病気のことを伝えました。私は仕事と春樹の付き添いで病院に行ったままだし、夫も毎日病院に寄っていましたから、中学1年生の長男が異変に気づかないわけはありません。
それまでの春樹の様子から、どうも病気らしいということは、もちろんわかっていたようですが、春樹はとてもまれで難しい病気なんだと、改めて説明しました。
和夫 治療と看護・介護はこれからもずっと続いて、今までのような生活には戻れない、今までのように弟と仲よく遊ぶことはできない。そしてこれから先、寂しい思いをさせたり、不便な思いをさせたりしてしまうこともあると思うけれど、お父さん・お母さんと一緒に春樹を支えてほしいとお願いしました。長男は「わかった」と言ってくれました。
智子 同居している義母が、長男の食事などの面倒をみてくれたのがとても助かりました。私がいない間も、育ち盛りの長男がちゃんとした食事をとれていることが、私にとって大きな救いでした。
長男は今でも春樹の面倒をよく見てくれる、とてもいいお兄ちゃんです。
在宅治療に切り替える前に、あらゆる専門家に今後のことを相談する
――その後の治療のことを教えてください。
智子 入院して5カ月がたった9月ごろ、病状が急激に進行してしまいました。自分で体を起こすことができなくなり、寝たきりになってしまったんです。口から食べることも難しくなったので、胃ろうを作ることになりました。胃ろうとは、おなかに小さな穴を開け、胃に直接栄養を送るための医療処置です。食べることが大好きだった春樹が、楽しんで食事をできなくなったことへのショックは大きかったです。でも、胃ろうはみんなと同じ食事をミキサー食であげることができるので、そのことを前向きにとらえるようにしていました。
一方、期待していたリバビリンは効果が見られず、治療開始から約半年で終了することに。治療はインターフェロンの投与だけとなったので、在宅治療に切り替えることになりました。
――在宅治療が始まる前にしたことはありますか。
智子 在宅での医療的ケアをどうするのか、学校生活はどうなるのかなど、わからないとばかりで不安でいっぱいでした。だから、病院の小児看護専門看護師、行政の相談窓口、地域の相談支援専門員など、相談できるあらゆる専門家や担当者に会いに行き、今後のことを相談しました。
――智子さんのお仕事は継続できたのでしょうか。
智子 実は、春樹がSSPEを発症したのは、二世帯住宅に建て替えたばかりの時期で、共働きを前提にして生活を設計していました。私が仕事をやめて春樹の介護に専念することは、わが家の経済事情を考えるとかなりリスキーだったんです。そのため、春樹が小学生のときは午後は義父母に見てもらい、中学生からは放課後等デイサービスを利用し、私は仕事を続けることにしました。
看護や介護の手を借り、家族がワンチームとなって息子の命を守る
――退院後の春樹くんの小学校生活について教えてください。
智子 元の小学校に戻ることが春樹の希望でした。小学校と相談し、特別学級に午前中2時間、月10日程度通学することになりました。もう車いすじゃないと移動できなくなっていたので、最初の1カ月は私が付き添い、その後の登下校はヘルパー移動支援を利用。校外学習や修学旅行は両親のどちらかが付き添ったうえで参加しました。そのころは言葉を発することは難しくても感情が表情に表れていたので、春樹がとても楽しそうにしているのがわかり、付き添っている私たちもうれしくなりました。
お友だちと過ごしたり、いろいろな行事に参加したりすることが、春樹の心身にいい影響を与えるのなら、できることはなんでもしようと考えていました。
――小学校側も協力してくれたとか。
智子 SSPEだとわかったとき、春樹はもう元の小学校には通えないのではないか、という大きな不安がありました。でも当時の校長先生が、春樹のための支援員の配置を役場と交渉してくれるなど、たくさんご尽力くださり、また、修学旅行の参加や両親の同行を許可してくださいました。6年生の運動会では、クラス対抗リレーで交流学級のクラスの一員として、短い距離を車椅子で走ることもできました。
健常児の学校生活の中に寝たきりの子が参加するのは、リズムが合わないことも多く、たくさんのご協力をお願いしました。地元の小学校に卒業まで通い続けられたことは、何より幸せなことでした。
――中学校・高校は県内の特別支援学校に入学しました。
和夫 15歳・中学3年生のとき、えん下機能の低下で肺炎を起こし、人工呼吸器を装着することになりました。それ以降は、週1回先生が自宅に来てくれる訪問学級に在籍し、週4回放課後等デイサービスに通所。月2回は通学もしていました。
――現在はどのような生活でしょうか。
智子 春樹の体調がよければ、日中は週5日、生活介護事業所に通っています。送迎してくれるので、とても助かっています。あとは週1回の訪問看護と、ヘルパーさんによるシャワー浴を利用しています。
たくさんの人が支えてくれるおかげで、私は今も同じ職場で1時間時短の勤務で働けています。
――現在の在宅での医療的ケアについて教えてください。
智子 たんの吸引、胃ろうからの食事の注入、気道粘液除去装置(カフアシスト)の施行など、ほんとうにやることがたくさんあります。15歳からは人工呼吸器もつけているので、モニターの監視や異常時の対処も24時間必要です。看護や介護の支援を受けているとはいえ、医療的ケアは基本的に家族が行っています。
いま、春樹のベッドはリビングの一角にあり、つねにだれかが見ていて、声をかけるようにしています。私が仕事から帰る前や家事をしているときなどは、義母が春樹の様子を見てくれています。家族がワンチームとなって春樹を守っているんです。
和夫 私は春樹と同じ部屋で寝ています。夜中も2時間おきの体位交換があるので、在宅治療になってからは、一度に眠れるのは1時間強というところです。常に睡眠不足ですが、それが当たり前になっているから、仕事中もさほど眠気を感じることはありません。
以前はアラームを使って2時間おきに起きていることもありましたが、今では自然に目が覚めます。私が春樹のためにしてあげられることなので、やるしかないって思っています。
――春樹くんがお出かけするための車を購入したとか。
和夫 在宅治療になってからは、月1回総合病院へ通院しています。そのほかにも、春樹と一緒に出かけるときは車が必須ですから、春樹が車いすでスムーズに乗り降りできるように、10年前に軽自動車の福祉車両を購入しました。楽に外出できるから、家族4人で遊びに行くことも多いですよ。
SSPEという難病を防ぐ手段は、麻疹の予防接種しかないと知ってほしい
――智子さんと春樹くんは「SSPE青空の会」に入っています。
智子 SSPEと診断され、病気のことを調べている中で、患者会があることを知り、入会しました。SSPEの治療法についてもホームページにアップされていて、とても勉強になりました。
また、SSPEが小児慢性特定疾患に認定される際には、患者会の尽力があったことを知り、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
――2025年6月には20代男性が、7月には10代男性が麻疹に感染したというニュースがありました。
智子 それらのニュースが報道されたとき、麻疹は感染力が強く、発症すると重症化することもある怖い病気だという解説はされていました。でも、感染して10年近くたってから、SSPEという恐ろしい難病を発症するリスクがあることは、だれも説明していませんでした。
少なくとも母子健康手帳にはそのことをもっときちんと記載してほしいし、プレママ・プレパパ教室でも周知してほしいです。SSPEから赤ちゃんを守るために必要なことだと思います。
また、麻疹に感染した人は、自身があまり重症化せずに治ったとしても、知らない間にワクチン接種前の赤ちゃんにうつしてしまい、その子にSSPEという難病を背負わせる加害者になるリスクがあるんです。そのことをしっかり認識してほしいとも思っています。
それを防ぐには麻疹の予防接種をきちんと受けて、麻疹患者を出さないようにするしかありません。このことを1人でも多くの人に知ってほしい。そう強く願っています。
【SSPE青空の会事務局・辻洋子さんより】予防接種が麻疹の広がりを防ぎ、無防備な赤ちゃんを守れる社会を作る
私も息子がSSPEを発症して、この病気を初めて知りました。麻疹に感染させてしまったことへの後悔は、今も心から消えることはありません。今年は麻疹の感染者が増えており、感染者が訪れた場所に、まだ予防接種を受けられない赤ちゃんがいませんように・・・と願う日々です。赤ちゃんを守るのは、ママやパパだけでなく、周囲の大人や子どもたちにもできる大切なことです。2回の予防接種を受けることで、麻疹の広がりを防ぎ、無防備な赤ちゃんを守れる社会になると信じています。「SSPE青空の会」はキャンプや会報、講演などを通じて、麻疹の怖さとSSPEの深刻さを知っていただく活動を続けています。また、予防接種の重要性を広く伝える取り組みにも力を入れています。
お話・写真提供/稲田智子さん・和夫さん 取材協力/SSPE青空の会 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
智子さん・和夫さんの二男、春樹さんは、現在、自分では体がほとんど動かせず、自宅でさまざまな医療的ケアを受けています。SSPEで苦しむ子どもとその家族がこれ以上増えないようにするためにも、麻疹の予防接種の重要性を理解し、きちんと接種し、社会全体で麻疹の罹患を防いでいくことが大切です。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年7月の情報であり、現在と異なる場合があります。