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「まさかわが子が…」3歳3カ月で白血病に。その時母は妊娠9カ月。家族が直面した大きな壁とは

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「公益財団法人小児がんの子どもを守る会」にボランティアとして参加し、子どもと家族のサポートを続けている酒井正代さんは、ご自身も小児がんで息子さんを亡くされた経験を持ちます。3歳3カ月で白血病を発症し、再発、再再発を繰り返し、小学校に入学した年にこの世を去った光樹(みつき)くん。光樹くんの白血病がわかった時、正代さんは妊娠9カ月で、次男・直哉くんの出産が迫っていました。
光樹くんが小さな体で闘い続けた治療の様子と、家族が乗り越えた数々の困難、そして治療の合間に得た宝物のような喜びの時間などについて聞きました。「小児がんと家族を知る」第2回。

「足が痛い」が白血病の初期症状だったとは

「兆候は、とてもささいなものでした。3歳3カ月を過ぎた頃、長男の光樹がよく足を痛がるようになり、発熱しだすようになったんです。といっても、普通に歩いていましたし、発熱も軽いものでした。何回か近所の小児科を受診したのですが、診断はいつも『問題なし』。熱もすぐに下がりました。
だから、これが白血病の初期症状とは思いもしませんでした」

そう振り返るのは、光樹くんのママ・酒井正代さん。当時、正代さんのお腹には次男・直哉くんがいて、妊娠9カ月になったところでした。光樹くんの保育園の送り迎えを、自転車から徒歩に切り替えたばかりだったので、「光樹が足を痛がるのは、歩くのが嫌で甘えているのかな」くらいに考えていたと言います。

ところが、何度目かの受診の際、「貧血を起こしているかも」と言われて血液検査をすることに。検査結果は1週間後と聞いていたのに、翌日、病院から電話が来て「白血病の疑いがあるから。すぐに紹介する大学病院に行ってください」と言われたそうです。

「大学病院のお医者さんは血液検査の結果を見たとたん『白血病に間違いありません。今から入院してすぐに輸血をしなければ』 と言いました。あまりに急で、すぐには信じられませんでした。
でも、検査のために1人で処置室に連れて行かれた光樹が戻ってきた時、目の周りが内出血で斑点だらけになっていたんです。急に病人のようになってしまった顔を見て、ただごとではないと悟りました」(正代さん)

この時、光樹くんが受けた検査は、骨の中にある骨髄組織を注射で取る「骨髄穿刺(こつずいせんし)」というもの。暴れると危険なので看護師さんが体を押さえたところ、光樹くんは怖くて泣き出してしまったのですが、血小板の数値がかなり低くなっていた光樹くんは、泣いただけで内出血してしまったのです。

「骨髄穿刺検査の結果、骨髄の中のほとんどを白血病細胞が占めていることがわかりました。でも。お医者さんから『白血病は小児がんの中でも多く研究も進んでおり、 7〜8割のお子さんは治っています。幸い光樹くんは白血球の数が7000 と高くなく、3歳というのも予後のいい年齢。いちばん治りやすく、治療も軽いもので大丈夫です』と言われ、少しほっとしたのを覚えています」(正代さん)

治療の副作用で顔がまん丸くなり髪も抜けて……

翌日からさっそく抗がん剤治療が始まりました。
光樹くんは医師や看護師を怖がり、聴診器を当てられたり体を触診されるだけでも、正代さんと手をつないで泣きそうになりながら受けていたそうです。そのうえ、治療の内容もとても辛いものでした。

「白血病の治療には、抗がん剤と併用してステロイドを大量に服用するのですが、光樹が与えられたステロイドは口が曲がるほど苦い粉薬でした。飲んでもすぐに吐き出してしまい、すると『大事な薬だから』とまた渡され、泣きながら親子で格闘しました。
タイムリミッ トまでに飲めないと、光樹1人でナースステーションに連れて行かれることに。そんなことが 1 週間、朝昼晩と1日中続いたのです」(正代さん)

ステロイドの副作用で、徐々にムーンフェイス(脂肪の代謝障害などにより顔に脂肪がついて丸くなる症状)になり、情緒も不安定になっていったそうです。筋肉注射に使う薬にはアレルギー反応を起こし、注射した後、お尻が腫れあがって座るのも痛がるほどに。
抗がん剤の副作用で吐くことも多く、髪も抜け始めました。薬によってだるくなったり、下痢になったり、逆にひどい便秘になったりを繰り返す毎日だったと言います。

「治療のためとはいえ、見た目が変化していくわが子を見るのはとても悲しかったです。病気になったうえに、なんでこんな辛い思いをさせないといけないのかと、毎日やり切れなくて泣いてました。でも、そんな中でも子どもの生命力は強いんですよね。光樹も少しずつ子どもらしさを取り戻し、笑顔で同じ病室の子たちと遊べるようになっていきました」(正代さん)

長男の付き添いのため、生まれたばかりの次男を乳児院へ

入院して1カ月。今度は正代さんの出産日が迫っていました。少しでも光樹くんの近くにいるために、光樹くんと同じ病院で出産することに。夫の成二さんが仕事を休んで光樹くんに付き添うことになり、その都合に合わせるため、誘発での出産を選んだそうです。

「当日は朝6時に、7〜8人の妊婦さんと一緒に陣痛誘発剤を飲みました。順調な人は昼過ぎには産んでいくのに、私は陣痛が強まるもののなかなか進ず、結局、夜10時に緊急の帝王切開に。次男・直哉は多呼吸とチアノーゼがあって NICUに入りましたが、無事に産まれてきてくれてほっとしました」(正代さん)

普通分娩なら5日ほどで退院ですが、帝王切開だったので正代さんも直哉くんも2週間ほど入院することに。成二さんも光樹くんに付き添って泊まり込んでいたので、図らずもこの2週間は、家族 4 人が同じ病院で寝泊りできる貴重な時間になったと言います。

「でも、生まれたばかりの小さな直哉を抱いた時、私が付いていられないことが急に心配になりました。当初は1カ月だけ私が家でみて、その後は主人の実家に預ける予定だったのですが、義母は足が悪く、お風呂のない団地住まいでした。
『夜中にこの子に何かあった時、すぐに気づいてもらえるだろうか? 』『生後1カ月の赤ん坊を連れて銭湯に行けるかしら……』どちらかに何かあったらと思うと、不安で仕方ありませんでした」(正代さん)

しかし、光樹くんの付き添いは絶対に必要です。病室で消灯後、声を押し殺して泣いていたところに看護師さんが声をかけてくれて、苦しい思いを相談したそうです。

「翌朝、院内のソーシャルワーカーさんを紹介していただいて相談しました。するとソーシャルワーカーさんから、保育士さんや看護師さんが24時間近くで見てくれる乳児院に預けてみてはどうかとすすめられました。
生まれたばかりのわが子を乳児院に預けるのも、とても辛い選択です。でも、他の選択肢はありませんでした。主人と相談し、次男を乳児院に預けることにしました」(正代さん)

退院3日前の検査で「白血病の再発」が発覚

退院後、初めて家族4人が揃ったお正月。光樹くんと直哉くんで記念写真。

入院から8カ月たった11月末、光樹くんは順調に治療を終えて退院することが決まりました。ところが退院の3日前、突然主治医に呼ばれた正代さん。

「なくなったがん細胞が、再び増えていると告げられました。ようやく治療が終わると思っていたので、一瞬何を言われているのかわかりませんでしたが、再発したということでした」(正代さん)

退院後に行なった検査で再発が確実になり、年明けに再入院することが決まりました。
年末年始は乳児院から直哉くんを引き取り、初めて家族4人で過ごすことができたものの、年明けすぐに直哉くんは乳児院、光樹くんは病院へ。正代さんも付き添いで病院に泊まり込み、成二さんは家から仕事と病院に通うという、家族バラバラの生活が再び始まりました。

「2度目の入院で言われたのは『ハイリスクな治療をしながら、骨髄(こつずい)移植か臍帯血(さいたいけつ)移植を目指したほうがいい』という厳しい内容でした。
最初の入院の時は、白血病による死の恐怖よりも、抗がん剤の副作用や晩期障害への不安の方が大きかったんですが、この時は光樹の命には代えられないという思いが強かったです。移植は怖かったですが、なんとしても治さなくてはという気持ちで、光樹とも『乳児院に 1 人でいる弟のためにも頑張ろうね』と話しました」(正代さん)

1回目の入院時より薬が強くなった分、副作用も強く出ました。でも、光樹くんは弱音も吐かず、頑張ったと言います。幸い、骨髄と臍帯血両方の適合者が見つかり、拒絶反応の少ない臍帯血移植をすることが決まりました。

臍帯血移植と、あまりに過酷だった無菌室での治療

臍帯血移植のため無菌室に入った光樹くん。正代さんとガラス越しにインターフォンで会話。

臍帯血移植とは、胎児と母体を繋ぐへその緒から取れる造血幹細胞を移植する方法です。移植した細胞をしっかり体に根付かせるため、抗がん剤の大量投与を行うので「無菌室」に1カ月以上入る必要があります。

「移植自体は点滴で造血幹細胞を注入するという、見た目にはあっけないものでした。でも、抗がん剤で白血球が一時的に0になると下痢が始まり、発熱して、粘膜という粘膜が全部ただれてしまいました。食事はのどを通らず、必要な薬だけを砕いてつぶして何とか飲ませるという状態。
光樹は昼間はだるさから寝ていることが多かったのですが、夜中、看護師さんが近くにいない時に目覚めては『怖いよ、誰かきて!』と泣き叫ぶようになりました」(正代さん)

無菌室には医師と看護師しか入れず、正代さんたち家族はガラス越しにインターフォンで会話することしかできませんでした。「ママに触りたい」と涙ぐまれても「あともう少しだよ」と言ってあげることしかできず、光樹くんに申し訳ない思いで一杯だったと正代さんは振り返ります。

「それでも徐々に回復し、無菌室に入って41日目、ついに一般病室へ移ることができました。心配していた拒絶反応も奇跡的にとても軽く済み、10月の終わりに退院することが決まりました。
先生方から『こんなにうまくいった移植は見たことない』と太鼓判を押され、気持ちもラクに。一緒に家に帰れる、今度こそ 1歳半になってしまった弟と家族みんなで暮らせるという幸せを、かみしめていました」(正代さん)

退院後の11月には、自宅で5歳の誕生日を迎えた光樹くん。翌年の4 月には保育園にも通い始めました。

「弟の直哉も光樹との暮らしをとても喜んでいて、『にーに』がトイレに行けば『ナオもー』、歯磨きをすれば『ナオもー』と、何でもマネしていました。兄弟げんかをしたかと思うとまたすぐ一緒に遊ぶ、そんなごく普通の毎日がとてもうれしく、輝いていました」(正代さん)

やっと乗り越えた辛い治療の日々。「移植までしたのだから、もうこれでもう安心」と誰もが思っていたと言います。しかし、小児がんの病状は医師にもなかなか予測できません。光樹くんはまたも突然「再々発」してしまったのです。

写真提供/酒井正代 取材協力/公益社団法人 がんの子どもを守る会 取材・文/かきの木のりみ

仕事が好きで、結婚後も忙しく仕事を続けていた正代さん。でも、産まれてきた光樹くんを見た瞬間、「こんなに何にも代えがたい宝ものがあったんだ!」と気づいたと言います。そのわが子が小児がんになり、再発、再々発を繰り返すのを側で見ている辛さは、とても言葉にできないものでした。
次回は、白血病の再々発で始まったさらなる過酷な闘病と、その後に選んだ「家での訪問看護」という生活のことなどについて聞きます。

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