命の決断を迫られ、470gの超低出生体重児で生まれた娘。手のひらに乗るほど小さな娘を見て涙が止まらなかった…。
大阪府の澁谷珠名さんは、夫、長女(3才)、二女の華名(はな)ちゃん(1才5カ月)の4人暮らし。華名ちゃんはコロナ禍の夏の暑い日に470gで生まれました。珠名さんは低出生体重児のママたちによる「キラリベビーサークル」の代表をつとめ、全国的に広がっている「リトルベビーハンドブック」を大阪府でも作成・配布ができるよう行政に求める活動もしています。リトルベビーハンドブックとは、1500g未満で生まれた赤ちゃんの成長を記録する母子健康手帳のサブブックです。
珠名さんが華名ちゃんを出産したときの様子やその後の成長について聞きました。(上の写真は生後9日の華名ちゃん。まだまぶたもしっかりできていなかった)
命の決断、そして出産。小さすぎる赤ちゃんに会って…
――妊娠中のいつごろに、出産が早まりそうとわかったのですか?
澁谷さん(以下敬称略) 妊娠11週のある夜、ベッドが血まみれになるほどの大量出血があり、すぐかかりつけの産院に行くと「絨毛膜下血腫(じゅうもうまくかけっしゅ)」と診断されました。自宅安静にして経過観察するも出血は治らず、20週を過ぎたころに「常位胎盤早期剝離(じょういたいばんそうきはくり)」も起こしていると言われ、即入院となりました。さらに状態が悪くなり21週にはNICUのある大阪母子医療センターへ転院。当時はトイレに行くたびに大量の出血を目にして過呼吸を起こしたり、コロナ禍で家族にも、当時1才10カ月だった長女とも会えず、毎日泣いて過ごしました。
また赤ちゃんの命の決断を迫られたことのつらさもありました。生存率や障害を持つ可能性などを医師から説明され、万が一のときに救命措置を希望するかどうか決めてくださいと言われました。私は泣くばかりでしたが、夫は即答で「どんなことがあっても絶対育てていきたい!」と。驚いたけれど、心配を吹き飛ばしてくれる力強い言葉でした。何があっても、私たちがこの子の手となり足となろう。そう2人であらためて誓い、赤ちゃんを産み育てることを決めました。
――華名ちゃんを出産したときはどのような状況だったのでしょうか。
澁谷 妊娠22週6日に、これまでなかった腹痛とさらに大量出血がありました。診察台の下に置いてあったバケツに血が流れ落ちる音が聞こえるほどの量。体の震えが止まらなくなり、医師に「全身麻酔で帝王切開手術します」と言われ、そこからの記憶はありません。名前を呼ばれ目覚めると、夫の姿と、隣にはたくさんの医療機器につながれている小さな赤ちゃんが見えました。
看護師さんたちから「おめでとうございます」と声をかけられたけれど、小さすぎる娘の姿を見て「本当におめでとうっていっていいことなのかな…」と複雑な気持ちでした。こんなに早く外の世界に出してしまって、娘には申し訳なさでいっぱいで…。でも、娘に会ったら言おうと決めていた「生まれてきてくれてありがう」と感謝を伝え、小さな小さな頭をそっとなでました。
前向きになれた看護師の言葉、支えあえた同じ境遇のママたち
――NICUで娘さんに再会してどんなことを感じましたか?
澁谷 産後2日目に、NICUにいる娘と再会したときのことは忘れられません。保育器の中にいる娘は、目もしっかりできておらず、鼻と口しかわからない顔。肌も薄い膜のようで、触れると破けてしまいそうなほど薄かった。そして、手のひらに乗るほどの小ささ。その姿はあまりにも衝撃的でした。
覚悟していたはずなのに、いざ小さすぎる娘の姿を目にすると…この子に明るい未来はあるのか、どんな試練が待っているのか、産んだことはこの子にとって幸せなことなのだろうかと、不安で胸が張り裂けそうで、涙があふれて止まりませんでした。
――つらいとき、周囲のサポートで心に残っていることはありますか?
澁谷 夫も両親も前向きに明るく励ましてくれて救われましたが、いちばん感謝しているのは、出産当日の担当看護師さんがかけてくれた言葉です。産後に「あのとき歩いたから…」「もっと痛みをがまんすれば…」と、後悔ばかりで泣き続けていた私に、「赤ちゃんも助けられなかったかもしれない状態で、ママも大量出血で子宮全摘出になる可能性があるほど危険なお産だったんだよ。今、ママの子宮も無事で、赤ちゃんが頑張って生きてる。こんな奇跡なことはないよ」と言ってくれたんです。
その言葉で「私と娘はたくさんの奇跡が重なって生かされている。こんな強運なことはないのかもしれない」と思えるようになりました。
それでも、小さく生まれた娘は健康面での心配はつきません。重度の慢性肺疾患で高濃度の酸素吸入が必要でしたし、動脈管開存症(どうみゃくかんかいぞんしょう)の手術をして、未熟児網膜症の治療もしました。私は産後6日で退院し毎日娘に面会に行っていましたが、そのたびに医師から悪い話を聞かされるんじゃないか、ととても怖かったです。ただ生きていてほしいと、毎日祈るような気持ちでした。夜中に、娘がいない中1人で搾乳するのも悲しくて寂しくて。そんなとき、心の支えになったのはSNSで出会ったママたちです。
――ママたちとの出会いでどんなふうに支えられたのでしょうか。
澁谷 SNSは産後に少しでも娘の記録を残したいという気持ちで始めたんですが、「#超低出生体重児」と検索すると同じ境遇のママたちとつながることができました。夜中に寝ぼけて、せっかく搾乳したビンを倒してこぼしてしまってやるせない気持ちをアップしたら「私もやったことあります!」と反応があったりして「あ、今みんなも搾乳してるんだな」とわかるんです。コロナ禍で人と会わなくなった中、SNSでのつながりにすごく助けられました。
あとは、病院の搾乳室で出会ったママに思いきって声をかけてみたら、そこから輪が広がり、NICUに子どもが長期入院しているママ8人くらいとすごく仲よくなったんです。話してみたら、実はみんなだれかに気持ちを聞いてもらいたかったんだ、とわかりました。うれしいこともつらいことも話しながら毎日にぎやかに搾乳していたので、看護師さんに怒られることもあったほど(笑)。彼女たちがいたから、前向きな気持ちで面会に通えたと思います。
1人で悩んでいる低出生体重児のママたちを支えたい
――華名ちゃんの成長の様子はどうですか?また、どんな子に育ってほしいですか?
澁谷 入院中はいくつもの壁があったけれど、娘はやっぱり強運なのかそれを乗り越えて、生後6カ月で無事に退院。24時間在宅酸素のケアはありますが、1才5カ月の今は、つかまり立ち、伝い歩きもしてベビージムにぶら下がったりと、とっても元気に育っています。正産期で生まれた子と比べれば発達はゆっくりですが、娘は娘。生きていることが奇跡だと思うと多少のことは気になりません。娘もたくさんの人に助けられてきたので、周囲の人を手助けできるような人に育ってほしいなと思っています。
――澁谷さんは、リトルベビーサークルを立ち上げたそうですが、どんな活動をしていますか?
澁谷 私もそうでしたが、低出生体重児のママたちは情報を得る機会が少ない上に、とくにコロナ禍では1人で悩んでいる人が多いです。大阪にはリトルベビーサークルがなかったので、搾乳室で知り合ったママと共同代表としてサークルを立ち上げることに。月2回のオンライン交流会や、サークルのチラシを大阪府内の病院に置いてもらうなどの活動をしています。現在、会員は60名ほど。将来的には大阪府でもリトルベビーハンドブックを作成・配布してもらうことを目標にしています。
リトルベビーハンドブックは、母子健康手帳のサブブックとして、低出生体重児の発達のステップを記載できたり、赤ちゃんのこれからの成長の様子がわかったりするものです。産後すぐにハンドブックを受け取ることができれば、ママたちは最低限の必要な情報を得ることができます。低出生体重児のママが1人きりで悩まないように、仲間とわかり合い、励ましあう場所を作っていきたいと思っています。
【板東先生より】国内で30余りの都道府県にリトルベビーサークルができている
小さく生まれた赤ちゃんのママたちは、予期せぬ出血や破水などの事態の発生、緊急搬送、急な分娩のほかに、初めての赤ちゃんとの対面での強い自責の念、医師からの聞くのがつらい厳しい予後の説明、ままならない面会…と、本当につらいことの連続です。そんなママたちの力になりたいと立ち上がってくださったママたちの力で、今日本の30余りの都道府県にサークルができて連絡を取り合っています。オンラインでの交流会も活発です。
お話・写真提供/澁谷珠名さん 監修/板東あけみ先生 取材・文/早川奈緒子、 ひよこクラブ編集部
小さく生まれた赤ちゃんとママやパパを応援する活動は全国に広がりを見せています。澁谷さんたちが運営するキラリベビーサークルは大阪だけでなく近県や東京などにもメンバーがいるそうです。
※記事の内容は記事執筆当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
板東あけみさん(ばんどうあけみ )
PROFILE
国際母子手帳委員会事務局長。29年間京都市で主に支援学級の教員を務めたあと、51歳のとき大阪大学大学院で国際協力を学ぶ。とくに母子健康手帳の認知を重視し、海外の母子健康手帳開発に協力。静岡県の小さな赤ちゃんを持つ家族の会「ポコアポコ」が作成した「リトルベビーハンドブック」に感銘を受けたことをきっかけに、各地のリトルベビーハンドブック作成のため都府県庁とサークルのコーディネート支援を行う。