父はジブリの鈴木P。「トトロちゃん」と呼ばれて、ジブリが好きでなかったことも。『カントリー・ロード』の日本語詞を手がけた、鈴木麻実子インタビュー
ジブリ映画の「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」の日本語詞を手がけた鈴木麻実子(まみこ)さん。麻実子さんの父は、スタジオジブリのプロデューサーを務める鈴木敏夫さんです。子どものころから天真らんまんだった麻実子さんの幼少期のことや鈴木敏夫プロデューサーの子育てについて聞きしました。全2回の1回目です。
父と顔を合わせるのは日曜だけ。物心つくまで、一緒に住んでいるのを知らなかった
スタジオジブリのプロデューサーを務める鈴木敏夫さんが28歳、妻が27歳のときに、ひとり娘の麻実子さんは誕生しました。
――幼いころについて教えてください。
麻実子さん(以下敬称略) 父は当時から忙しくて、帰ってくるのはいつも夜中。私が幼稚園や小学校に通うようになると、父が起きるのは登園や登校後だったので、父と顔を合わせるのは日曜日だけでした。
そんな生活だったので、物心がつくまで私は父のことを一緒に住んでいるとは思いませんでした。たまに顔を合わせて、父が出かける姿を見ると「また来てね~」と言っていました。
親子の会話が少ないことを、父なりに気にかけていたようで、父は空いた時間を見つけては、私のアルバムを作ってくれていました。私の写真を貼って、当時の時代背景などもていねいに書き込んで一緒に貼ったりしていて。
私は赤ちゃんのころから髪の毛が多くて、ボサボサ頭だったのですが、私の写真に父は「石川五右衛門」と吹き出しをつけたりしていました(笑)
「将来、私に見せたい!」と思って、コツコツ作り続けてくれていたようです。
――幼いころ、麻実子さんはどんな子でしたか?
麻実子 私が3歳のとき「アルプスの少女ハイジ」が映画化されて、父と見に行ったことがあったのですが、私は上映前、突然、舞台に上がって「ハンカチは2枚用意してください。思いきり泣いてください」と大きな声で言い出して、あわてて父に戻ってくるように促されたのを覚えています。「ハンカチは2枚~~」というのは、映画のキャッチフレーズだったと思います。
私は幼いころから、いろいろなことを空想するのが好きな子でした。絵本を読んだりするよりも空想をするのが大好きでした。幼稚園の面接で名前を聞かれたときは、アニメの魔法使いサリーになりきって「私はサリーよ。弟はカブよ」と言ったりするような子でした。
小学校の帰り道、興味があるものを見つけるとそれに夢中になり過ぎて、ランドセルを道ばたに置いたことを忘れて、手ぶらで家に帰ってしまうこともありました(笑)
父の仕事仲間や私の友だちが、ワイワイ集まるのが鈴木家
麻実子さんの天真らんまんな性格は、お父さんの育て方や家庭環境も影響しているようです。
――そうした麻実子さんを、両親はどのように育てたのでしょうか。
麻実子 母は、しつけに一生懸命なタイプでした。でも父は私がすることを面白がって見ていて、母だとしかるようなことでも「なんでそんなことしたの?」「なんでそう思ったの?」と聞いてきました。私が「面白そうだから」などと答えると「そうなんだ」と言って、否定したりはしません。
きっと子ども扱いではなく、1人の人として見ていてくれたのだと思います。
――麻実子さんの著書『鈴木家の箱』には、鈴木家はとにかく人が集まるおうちというエピソードがありました。
麻実子 私が幼いころから、父の仕事仲間や母の友だちなど、とにかく人がワイワイ集まる家でした。小学生になると私の友だちもよく遊びに来ていて、私がいなくても母が「待っていてね~」と家に上げていて、帰ってくると友だちが何人も家でくつろいでいることもありました。
友だちが、私の知らない子を連れて来ていることもあって、友だちの輪が広がったりもしました。私はそんな鈴木家が大好きでした。
そうした家で育ったことが、私の人格形成にも大きな影響を与えていると思います。
宮﨑駿監督の依頼で『カントリー・ロード』の日本語詞を。でも幼いころからジブリ作品は、好きではなかった
麻実子さんが、ジブリ映画の「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」の日本語詞を手がけたのは18歳のときです。依頼は、宮﨑駿さんからでした。
――「カントリー・ロード」の日本語詞を手がけることになったのはなぜですか?
麻実子 私が18歳のとき、父に急に声をかけられたんです。それまで作詞なんてしたことがなかったのですが、中学生のころから詩を書くのが好きで、毎日のようにノートに詩を書きためていました。もしかしたら父は、そのノートを見たのかもしれません。
ある日、父から「『耳をすませば』という映画で使う曲の歌詞を宮﨑駿さんが書いているけど、なかなか進まなくて。スケジュールの問題もあって急かしたら宮﨑さんが『そうだ! 鈴木さんの娘に書いてもらおう』と言い出したけど、書いてみる?」と言われました。
映画の主人公が中学生だから、年齢の近い私に書かせてみようということだったらしいのです。
――依頼が来たら、すぐに受けたのでしょうか。
麻実子 最初、父は私に書かせみてイマイチならば、宮﨑さんが「自分でやるしかない」と思うだろうと考えていたようです。私も作詞なんてしたことがないし、私が書いたのを参考にする程度だろうと軽い気持ちで受けたのが始まりです。
完成した日本語詞を見て、宮﨑駿さんから電話があり「なんであんな歌詞が書けたんですか?」「どうやったらあんな詩が書けるんですか?」と聞かれました。私は緊張のあまり「思い浮かんだから」としか答えられなかったのですが、その言葉が今でも忘れられません。
――麻実子さんの息子は、お母さんが『カントリー・ロード』の日本語詞を手がけたことを知っているのでしょうか。
麻実子 もちろん知っています。息子は今、小学6年生ですが「今日、ママの歌が流れていたよ」と教えてくれたりします。
――麻実子さんは、幼いころからジブリの世界観をよく知っているということも依頼するきっかけになったのではないでしょうか。
麻実子 実は私は、ジブリ作品があまり好きな子ではなかったんです。ジブリ作品はあまり見ずに育ちました。
父のことを知っている友だちからは「ナウシカ~」「トトロちゃん」と冷やかされて、嫌で嫌でしかたなかったから、ジブリ作品をあえて見ませんでした。
私は、家族で食卓を囲むようなごく普通の家庭にあこがれていて、そういうことができないのはジブリのせいだ!と思っていたぐらいです。
――著書『鈴木家の箱』では、とても仲がよさそうな親子写真が印象的でした。
麻実子 父のことを尊敬して、すごい人だなと思うようになったのは、意外と最近です。
父をゲストに招いてオンラインサロン「鈴木Pファミリー」でメンバーと映画談義などをしているのですが、そこで父のファンから父の人柄や仕事のことなどを聞くうちに、父への思いがどんどん変わっていきました。
今では、私を苦しめていたはずのジブリの映画が好きになってきました。2023年7月に公開された映画『君たちはどう生きるか』は4回見ました。『コクリコ坂から』も大好きです。
いろいろあったけど、やっぱり父の娘でよかったなと思います。
お話・写真提供/鈴木麻実子さん 取材・文/麻生珠恵 たまひよONLINE編集部
麻実子さんは現在47歳。小学6年生の男の子のママでもあります。「幼いころは、父の仕事に葛藤を抱き、嫌だった時期もあったけれど、自分自身が親になって父のことが理解できるようになったし、父の存在はやはり大きい」と話します。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年11月の情報で、現在と異なる場合があります。
鈴木麻実子さん(すずきまみこ)
PROFILE
1976年、鈴木敏夫プロデューサーの長女として生まれる。映画「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」の日本語詞や平原綾香さんの「ふたたび」などの作詞を手がける。1児の母。
『鈴木家の箱』
鈴木敏夫プロデューサーとの親子関係や「カントリー・ロード」の裏話、麻実子さんの子育て、ママ友のことなどが詰まった初のエッセイ集。鈴木麻実子著/1980円(筑摩書房)