不妊治療、3回の流産を経験、高齢出産で2人の息子の母に。コロナ禍での祖母の死が息子たちに与えた影響とは?【俳優・加藤貴子】
10歳と7歳の男の子を育てる俳優の加藤貴子さん。たまひよONLINEでは2019年から2021年までコラム「私だって新米ママ!」を連載、2022年1月から2024年10月まで専門家との対談企画の連載をしてきました。加藤さんに、妊活や高齢出産の経験、これまでの育児を振り返っての思いを聞きました。全2回インタビューの前編です。
流産を3回経験して授かった長男。妊娠をあきらめてから授かった二男
――44歳で第1子、46歳で第2子を出産した加藤さん。妊活のころからを振り返り、大変だったことは?
加藤さん(以下敬称略) 私は34歳からタイミング法で妊活を始め、42歳から本格的に不妊治療を開始しました。2回体外受精で妊娠をしましたが、2回とも稽留流産(けいりゅうりゅうざん)に。その後自然妊娠できたけれど、またも稽留流産となってしまいました。そして不育症の治療を始めて3回目の体外受精で長男を授かることができました。
長男が1歳を過ぎ断乳してすぐに2人目の不妊治療を開始しましたが、1人目のときとは違ってまったく着床しなかったんです。子どもが独り立ちできるまでを逆算して、不妊治療は46歳になる10月までと自分で期限を設けていたので、誕生日を過ぎてもうこれで終わりにしよう、と。そんなときクリニックの看護師さんが「最後、年末年始のお休みでストレスがない状態で挑戦してみたら?」と提案してくれました。最後だからと、凍結胚移植(体外受精した受精卵を凍結保存し、融解して子宮に戻す)とタイミング法とを一緒にトライしてみたんです。それで授かったのが二男でした。
――もともときょうだいがほしいと思っていたんですか?
加藤 高齢出産だったので、子どものそばで見守ってあげられる年数が、ほかのお母さんたちよりきっと15年くらい少ないと思ったんです。親がいなくなったとき、子どもが独りぼっちになるのは寂しいから、きょうだいを作ってあげたいと思いました。私自身も3姉妹ですが、きょうだいの存在はいざというときに心強いものです。
そして理由はもう1つあります。実は、長男が出産にいたったときの妊娠は最初は双子でした。でも妊娠初期に1人の赤ちゃんの成長が止まってしまったんです。どうすることもできず、その子は自然に子宮に吸収されてしまったようでした。医師から「この子の成長はとまってしまっている」と聞き、お別れだとわかったときに、「ありがとう。君のおかげでもう1人が育っているよ。必ず君が生まれる機会を作るね」と、心の中で約束したんです。そんなこともあって、もう1人産みたいなと思っていました。長男を出産してから、2人目の不妊治療を視野に入れながら生活していました。
キラキラのママたちを見て「自分はダメだ」と落ち込んだ
――たまひよONLINEでの初期の連載「私だって新米ママ!」では、子育ての大変さもつづっています。
加藤 母乳を飲ませながらの育児と仕事と家事で寝不足の中、時間に追われる日々は想定をはるかに超えた大変さでした。だけど、その大変さをだれかに相談したり、助けを求めたりすることができなかったんです。自分と同じように不妊治療で苦労している人もたくさん見てきたので、子育てが大変って口に出すことはぜいたくだ、と思う気持ちもありました。それに「育児が大変!」と口にしたら、「覚悟の上で高齢出産したんでしょ?」と言われるんじゃないかと恐れていたこともあります。
「子育てはママの笑顔がいちばん!」って聞きますけど、気がつけば洗面所の鏡に悲壮感たっぷりの自分の顔が映っているような日々で、笑顔どころではありませんでした。自分もブログをやっているから、ほかのママたちのブログも参考に見てみると、みんなキラキラしておしゃれを楽しんでいるし、お部屋での写真もきれいに片づいていて。それを見て、子育てでいっぱいいっぱいの私は「ダメな母親だ」と落ち込む日々でした。
――加藤さんのお母さんも高齢で頼れなかったとか・・・。
加藤 私が第1子を出産したときには実母はもう70代後半でしたし、ひざも悪かったので、母1人に子どもをまるっきりあずけることは、母にも負担になってしまうだろうな、と。子どもをおばあちゃんの家にあずかってもらっているママたちがすごくうらやましかったです。そんなときに、「たまひよ」さんから連載のお話をいただいたんです。
高齢でも子育ては初めてのことばかりで、たくさん失敗したり悩んだりしていました。私自身が自分の悩みや不安をだれかと共有したかったので、とてもいい機会をいただきました。連載の原稿を書くことで、自分の不安や困りごとと向き合うことができて本当に貴重な時間でした。
息子たちが大好きなばあばとの別れ
――2022年、同居していた加藤さんのお母さんが他界されました。息子さんたちはどのように受け止めていましたか?
加藤 私の母とは東京で同居していたんですが、母に用事があって静岡の実家に戻ったときに急に具合が悪くなってしまいました。姉の手配で救急搬送されて意識のない状態で1週間ほど頑張ってくれたのですが、コロナ禍でお見舞いもかなわぬ中、病院から呼び出されたので、息子たちも連れて向かったら、私たちが到着するのを待っていたかのように、母は帰らぬ人となりました。
子どもたちからしたら、元気に「いってきます」と出かけたはずのばあばが、急に危篤状態で医療機器に囲まれていて驚いたと思います。当時小学1年生だった長男は、母が息を引き取っても「ばあば、一緒に帰ろう」と必死に何度も何度も呼びかけ続けていました。医療スタッフの方たちは、長男の気が済むまで声をかけさせてくれました。30分ほど呼びかけたところで「もう、ばあばを見送ってあげようね」と伝えました。
――大好きなばあばだったんですね。
加藤 ばあばは子どもたちにとって、無条件で愛してくれる絶対安全な避難場所だったんです。私にしかられたあとは、必ずばあばの部屋に行って、なぐさめてもらったり味方になってもらったりしていました。葬儀後しばらくしてから、ばあばのベッドの中で長男が「僕はこれからだれに甘えたらいいの? だれとお話すればいいの?」と泣いていた姿が忘れられません。
二男はまだ4歳で、死についてよくわかっていなかったと思います。でも病院からの帰り道で「なんだかこわかったから声が出なくなっちゃったの」と言っていました。たしかに二男は病院でひと言もしゃべっていませんでした。母の死は、私以上に息子たちにとってショックだったと思います。
初七日、四十九日、一周忌などの法要には必ず息子たちも参加させて、ばあばがどれだけ息子たちのことを愛していたかを伝えています。息子たちは、時間をかけてばあばの不在を受け入れているようです。
――夫さんのお母さんとは今も同居していますか?
加藤 はい。義母は87歳なので、息子たちは自分たちがばあばを助けようという意識が強いみたいです。ばあばが起き上がるのに介助が必要なときは私を呼びに来て手伝ったり、今年の暑かった夏には、「水分補給した?」「お塩なめた?」なんて声をかけたり、なにかと気づかっています。そのたびに義母は「ありがとうね、うれしいよ」って泣いちゃうんです。義母もとっても優しい人です。
高齢出産をする人は、相談や支援の準備を
――高齢出産で育児している人に伝えたいことなどはありますか?
加藤 仕事を持つ女性にとって、妊娠・出産・育児とキャリアとの両立がいまだにうまくいかないことも多い現状で、いろんな事情を抱えながら、高齢出産になってしまう人も多いと思います。 子育ては1人では大変ですから、できれば出産前から夫婦で協力しあって子育てをする役割分担の話し合いをしてほしいです。
そして「産後うつ」に対しての知識や理解も持って、回避してほしいです。 私は2人目の産後に、子どもとどうやって接していいかわからなくなってしまった時期がありました。産後ケアやファミリーサポート、病児保育や小児科の場所なども事前に調べておくと安心だと思います。受けられる支援は受けて、心も体もリフレッシュしながら子育てしてほしいなと思います。
お話・写真提供/加藤貴子さん 撮影/アベユキヘ 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
不妊治療をへての高齢出産や、めまぐるしい子育て、育児の悩みを相談できなかったことなど、困難を乗り越えてきたからこそ、今の加藤さんの優しさや強さ、明るさがあるのだと感じました。
加藤貴子さん(かとうたかこ)
PROFILE
1970年生まれ。1990年に芸能界デビューして以降、数々の作品に出演。代表作として『温泉へ行こう』シリーズ(TBS系)、『新・科捜研の女』シリーズ(テレビ朝日系)、『花より男子』(TBS系)などがある。
●記事の内容は2024年12月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。