スノーボード日本代表で女の子のパパ、小須田潤太選手。「交通事故で右足の太ももの下を切断したけれど、そこから人生が大きく好転した」
冬季パラリンピック代表の小須田潤太選手(オープンハウスグループ所属)は、21歳のときに仕事中の交通事故で右足を失いました。事故から3年後、競技用の義足で走ったことをきっかけに陸上競技を始めます。そこからスノーボードに出会い、パラリンピック代表に。「たまひよONLINE」では1人の女の子のパパである小須田選手に、幼少期からスノーボードで日本代表になるまでの話をじっくり聞きました。
全2回インタビューの前編です。
5人きょうだいの2番目。サッカーに夢中だった幼少期
――小須田さんの子どものころの話を聞かせてください。どんな子どもでしたか?
小須田さん(以下敬称略) 僕は5人きょうだいの2番目で、性格は今とあまり変わらず勢いだけはありました(笑)。小さいころから運動も勉強もあまり苦手なものはなく、なんとなくできてしまうような典型的な器用貧乏タイプの子どもでした。
――5人きょうだいとは、家庭内はとってもにぎやかだったでしょうね。
小須田 兄と僕、妹が2人に弟がいます。上の3人は年子で4番目と5番目は上のきょうだいと2歳違いなので、いちばん上といちばん下までは6歳しか離れていません。めずらしいきょうだい構成だったと思います。とにかく家族はにぎやかで、両親は僕たちのことを否定することなく、やりたいことをやりたいだけやらせてくれるような親でした。とくに母親は優しくて、怒られた印象はないです。
――子どものころはどんなことに熱中していましたか?
小須田 幼稚園のころからサッカーをやっていたので、サッカーに夢中になっていました。小学生のころはプロサッカー選手になりたいと思っていました。でも、小学校6年生でセレクションに挑戦するも選ばれることはなく、プロの道は厳しいことがなんとなくわかってきて、サッカーに対して徹底的に突き詰めることもないまま学生時代を送っていました。
――将来についてはどんなふうに考えていましたか?
小須田 サッカーについてはまわりを見ると自分より上手な人がいっぱいいることがわかりました。そこからは将来に対して目標や夢を明確にもつことがないまま大学に進学しました。大学に入学してからも無気力な状態だったので、だんだんと通学する意味を見失ってしまい、大学2年の冬に中退をしました。
右足はひきちぎられてしまったけれど、落ち込むことはなかった
――21歳のときに交通事故で右脚の太ももの下を切断され、そこから小須田さんの人生は大きく変わっていったかと思います。事故の瞬間のことは覚えていますか?
小須田 よく覚えています。大学を中退後、高校時代からアルバイトをしていた引っ越し業者に就職しました。トラックでお客さまの荷物を運んでいるときの事故でした。片側3車線の大きな道路で中央分離帯に乗り上げ、右足は横転したトラックと電柱に挟まれた状態で、事故と同時にひきちぎられた状態でした。右足の太ももから下がなく、足の骨がむき出しで見えていましたが、そのことよりも運んでいたお客さまの荷物が気になって「どうしよう」と思ったことを覚えています。
――事故直後、意識はしっかりあったんですね。
小須田 意識はありました。むき出しになっている骨を触ったことも覚えていますが、痛みは通り超して、「苦しい」という状態でした。救急車で運ばれて手術をするために麻酔されるまで、しっかり覚えています。
――同乗者はいたのでしょうか?
小須田 僕の自損事故でした。ほかに巻き込んだ車などはありません。引っ越しの作業中だったので助手席にアルバイトの助手が乗っていました。助手は小・中・高の友人で奇跡的に軽傷だったのが不幸中の幸いでした。事故後は救急車が来るまで、ずっと僕の名前を呼んでくれていました。
――手術後、意識が戻ってからはどんなことを感じましたか?
小須田 それが不思議と右足を失ったということを悲観することはなかったです。それよりも術後の痛みが激しくて、つらかったです。
――家族もびっくりしたかと思います。
小須田 話を聞いたときは驚いたかとは思います。でも、僕の前で悲しむことはなく、今までどおり接してくれたので救われました。
――退院後も精神的につらく感じることはありませんでしたか?
小須田 「一度は落ち込み、そこからはい上がって今があります」と言いたいところですが(笑)、それがないんです。リハビリ中も自宅で静養していましたが、メンタル面は落ちることはありませんでした。事故をした年の夏は人生でいちばん遊びましたし、翌年の1月には事務員として職場復帰もしました。
山本篤選手と自分の体にフィットする義足との出会い
――最初は義足ではなく、松葉づえでの生活をしていたそうですね。
小須田 なかなか義足が自分の体にフィットしなかったので、数年は松葉づえで生活をしていました。しかし、理学療法士さんから義足で走るイベントがあることを聞き、参加してみたんです。義足で走ることに最初は抵抗がありましたが、体を動かすことの楽しさを思い出しました。もともとスポーツは全般的に好きだったので、義足で走ることができるということを知って、その楽しさに目覚めてからは自分の体にフィットする義足を何度も作り直してもらいました。
――自分の体に合う義足を作ることも大変そうです。
小須田 義足を履く前に装着するシリコン製の靴下をいろいろと試してみたり、技師さんに相談したりしました。また、自分自身の体重の変化も義足に影響するので、そこも苦労しました。何人もの義肢装具士さんにお世話になり、試行錯誤の上で2019年ごろに落ち着きました。交通事故で切断された脚の筋肉が独特な形だったこともなかなか合う義足に巡り合えなかった理由のようです。
――陸上競技との出会いについて教えてください。
小須田 2015年に参加した義足で走るイベントで、日本の義足陸上競技選手として初めてパラリンピックでメダルを獲得した山本篤選手に出会いました。そこから自分も陸上競技に興味を抱くようになり、練習を開始しました。義足が落ち着いてからは山本選手と一緒に練習をする機会に恵まれ、とにかく山本選手の背中を追いかけるように練習に励みました。
――陸上競技からスノーボードに転身したのも山本選手の影響ですか?
小須田 まさにそうです。2017年に山本選手が国内のスノーボードの大会で優勝した姿を見て、「これは俺もやらなきゃいけない」と感化されました。その年の冬に友人を誘ってスノーボードをやってみたところ意外と滑れることがわかり、次の年の試合にエントリーをしました。当時の僕は今以上に勢いがあったので、日本代表チームのコーチ陣に声をかけてもらうことができて、本格的にスノーボードの練習を開始しました。
――そこからはスノーボードにしぼったわけですね。
小須田 それは北京パラリンピック後です。東京、北京とパラリンピックを2大会経験し、どちらも7位入賞でした。メダリストとそれ以外の違いを痛感して、本気でメダルを取りたいと思うようになりました。最短でねらうなら、2026年の冬季パラリンピックだなと考え、スノーボード1本にしぼりました。夢や目標がなかった僕に大きな目標ができました。
右足を失くしたことで人生が大きく好転!
――現在の小須田さんの目標は定まりつつありますね。
小須田 今年の3月にカナダで開催された世界選手権で初優勝をしました。次はパラリンピックで金メダルを取るという目標にしぼっています。
――21歳のときに事故で右足の太ももから下を失ってしまいましたが、逆に得られたことも多そうです。
小須田 器用貧乏だった僕はなんでもできるタイプだったので、もし事故をしていなかったら、今もなんとなく生きていただけのような気がしています。当たり前にできていたことができなくなったことで、「できることを頑張ればいいんだ」というマインドに変化しました。
できることが絞られたことで、目標も明確になりました。だから、僕にとっては右足を失ったことは意味があることだと感じています。
――今後、パラスポーツの普及・発展のために活動しようと思っていることはありますか?
小須田 健常者と障害者の垣根をなくすような議論はありますが、僕の場合は障害を持っていることに悲観はしていません。むしろ、障害を負ったことにより、パラリンピックで金メダルを取るという夢ができました。障害をもっていたとしてもスポーツを楽しむ方法はあります。多くの人にスポーツを通して、もっと前向きになってもらうために、イベントや講演会で声を届けていけたらいいなと思っています。
――2025年3月には、千葉県の小学校で講演会をされたとか。
小須田 「心のバリアフリー」というテーマでの講演会でした。スノーボードをしている姿の動画も見てもらいましたが、僕の右足に触ってもらったり、いくつか種類がある義足を触ってもらったり、今までの僕の失敗と挑戦について話しました。僕はなんとなく漫然とオールマイティに取り組んでしまっていたけれど、足を切断するという事故がきっかけで、失ったものがあった中で、できないことが増えたからこそ1つの目標を見つけることができた、ということを話しました。
全校生徒150人ぐらいの小学校でしたが、みんなとっても素直に聞いてくれた印象です。「夢とか目標をはっきりもつこと」「人間は1人では何もできない」「嫌いなことほど挑戦してほしい」と伝えたつもりです。僕にとってもいい機会をもらいました。
お話・写真提供/小須田潤太さん 取材協力/オープンハウスグループ 取材・文/安田ナナ、たまひよONLINE編集部
「障害と言っても足がないだけです」と明るく自身の境遇を話してくれた小須田さん。小学校の講演会でも自身の境遇や義足について子どもたちの前で話し、講演後は一緒に給食を食べながら話は続いたそう。障害のありなしにかかわらず、常に前向きで明るい小須田さんの生き方に共感しました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
小須田潤太さん(こすだじゅんた)
PROFILE
オープンハウスグループ所属のアスリート。1990年10月生まれ。埼玉県出身。21歳のとき交通事故で右足を切断したが、リハビリをへて陸上競技を始め、東京パラリンピックに出場。2022年の北京パラリンピックではスノーボードクロスで7位入賞した。2025年3月カナダ世界選手権バンクドスラロームで初優勝を飾る。2023年に第1子が誕生し、2025年の7月には第2子が誕生予定。