「おなかの赤ちゃんの体重が増えない・・・」。生後6カ月で告げられたのは、看護師の母も初めて聞いた希少難病【コルネリア・デランゲ症候群】
愛知県で4人家族で暮らす小林さんファミリー。昌代さん・功さん夫妻の長女、明愛(めい)ちゃん(12歳)は、生後6カ月のとき、先天性の難病、コルネリア・デランゲ症候群と診断されました。
コルネリア・デランゲ症候群は、知的障害を伴う全般的な発達遅滞、手足の異常などが生じる遺伝子の突然変異による疾患です。
全3回のインタビューの1回目は、明愛ちゃんの誕生から、病名がわかり医療的ケアを行うようになったことなどについて聞きました。
つわりに苦しみながら看護師を続ける。胎児の体重の増えが悪く、38週目に出産
看護師を目指していた昌代さんは、看護学校を卒業後、大学病院に就職します。
「子どもにかかわりたかったので小児科を希望したのですが、配属されたのは産婦人科。大学病院はハイリスクな妊婦さんの出産を取り上げることが多いので、赤ちゃんがNICUに運ばれた後、お母さんの心身が少しでも楽になってほしいと願いながら、看護をしていました。
でも、当時の私は独身で出産経験もなく、今思うと、いたらないところも多く申し訳なかったなと思います。今ならもっとお母さんに寄り添った看護をできる気がします」(昌代さん)
その後、夫となる功さんと共通の友人を介して知り合い、結婚。3年後に明愛ちゃんを妊娠します。
「子どもがほしかったので、妊娠がわかったときはすごくうれしかったです。でも、つわりがひどくてつらかった・・・。水分をとることも難しく、点滴するために通院しましたが、仕事はフルタイムで続けていました」(昌代さん)
つわりはきつかったものの、妊娠の経過は順調でした。
「妊婦健診に行くと毎回『順調ですね』と。だから、何の心配もしていなかったんです。ところが妊娠35週を過ぎたころから、胎児の体重が増えなくなってしまって。それでも推定体重は2400g程度で、すごく小さいというわけではありませんでした。
正産期に入った妊娠37週目ごろ、担当医から『体重が増えないので38週目に入ったら出産しましょう』と言われ、帝王切開で赤ちゃんを産むことになりました。
そのころの心配事は体重が増えないことだけ。私や夫はもちろん、担当医も、赤ちゃんに異常があるなんて思ってもいなかったんです」(昌代さん)
娘の病院にかけつけ、医師から説明を聞いた夫。夫が泣くのを初めて見た
生まれた明愛ちゃんは、体重2045g、身長40㎝。想定より小さい赤ちゃんでした。
「低体重のため呼吸が安定していないと、医師から説明がありました。その上、右手小指の位置が通常より下にある奇形だとも。出産したのは産科クリニックだったので、明愛はNICUのある市民病院に救急搬送されました。
娘に異常があったことはわかったものの、帝王切開の開腹手術直後で、私はまったく身動きができません。娘の元にすぐにでも行きたいのにかなわず、心配と不安で心が押しつぶされそうになりました」(昌代さん)
功さんが明愛ちゃんのいる病院にかけつけ、対面。医師から説明を聞いたあと、昌代さんの病室にやって来ました。
「このときは低出生体重児であることと、指に奇形があることの説明しかなかったそうです。夫はとても優しい人です。何らかのトラブルを抱えてNICUにいる赤ちゃんたちの様子を見たのは初めてのことで、その中にいる娘のことを考え、とてもとても落胆していました。
夫は『明愛は頑張っていたよ』とポツンと言ったあと、こらえきれないように泣き出したんです。その姿を見て、私も涙が止まらなくなりました。ひとしきり2人で泣いたあと、「2人で頑張っていこうね」と誓い合いました。
そのころの夫は警察官をしていて、やさしくて強い、頼りがいのある人です。夫の涙を見たのは初めてのことでした。夫と出会ってから約20年になりますが、涙を見たのは後にも先にもこのときだけです。
この半年後に明愛の信じられない病名を告げられ、私が落胆したときも、夫は冷静に対応してくれました」(昌代さん)
遺伝子検査によって、治療法のない先天的な難病を患っていることがわかる
明愛ちゃんの体調は安定していて、3週間程度で退院することができました。
「待ち望んでいた親子3人の生活が始まったのですが、それは授乳と格闘する日々でした。なかなか飲んでくれないから、毎回60分くらいかけて授乳したり、授乳回数を増やしたり。それでもあまりにも体重の増えが悪いので、生後6カ月のとき精密検査を受けました。
染色体検査は異常なし。何かの病気ではなく、小さく生まれてきたために飲む力が弱いだけなんだと、夫と喜び合いました。ところが、市民病院の担当医が『遺伝子検査もしましょう』と言うんです。遺伝子検査はこの病院ではできないので、遺伝子科のある専門病院を紹介され、検査を受けることになりました」(昌代さん)
遺伝子検査の結果、医師から告げられたのは、予想もしなかった病名、「コルネリア・デランゲ症候群」というものでした。この病気は以下のようなものです。
眉毛が濃く、つながっている、まつ毛が長くカールしている、鼻の穴が上を向いていて上唇が薄いなどの特徴的な顔の様子があり、哺乳力が弱く、口の動きの協調性に乏しい。難聴や側弯、成長障害や貧血などがある。(小児慢性特定疾病情報センターHPより、編集部にて改変)
「病名を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは『???』。看護師になるために勉強していたときも、産婦人科を含めて看護師として働く中でも、1回も聞いたことがない病名でした。もちろん患者さんを見たことはありません。
そして医師は、『この病気には治療法がなく、不調が現れたらその都度、対症療法を行うことしかできない』と言うんです。授乳にてこずるのも、指に奇形があるのも、病気の影響だったんです。まさかそんな希少難病を患っていたなんて・・・。
子どもたちはみんな、ワクワクするような楽しい人生が待っている思っていたのに、明愛は治らない病気と障害を抱え、夢も希望もなく生きていかないといけない。なぜうちの娘がこんな目にあわないといけないの?何かの罰ゲームなの?人生が終わったと感じました。
元気な体に産んであげられなくてごめんねと、明愛に何度も謝りました。この病気は遺伝ではなく、遺伝子の突然変異で起こるものだということをあとで知りましたが、このときは自分を責め続けました」(昌代さん)
ゆっくり、でも確実に成長する娘。その姿を見る喜びで、母として強くなれた
明愛ちゃんには哺乳困難があり、口から飲める量に限界があるので、病気の診断がついたあと、経管栄養を行うことになりました。経管栄養とは、チューブを使って、鼻や口から胃や腸に直接栄養剤を注入する医療的ケアです。
「私は看護師ですから、経管栄養のケアはスムーズにできるはずと思っていたんです。ところが、週1回行う管の入れ替えには、とんでもない苦労がありました。管を鼻から入れるのがとても不快らしく、明愛は全力で拒否。動くと危ないから、私も全力で明愛の体を押さえて管を入れます。
大泣きする明愛を押さえつけて処置をするのは、かわいそうでたまりませんでした。でも、経管栄養は明愛の命をつなぐために欠かせないもの。毎回心を鬼にして行い、終わったあとは必ず『よく頑張ったね』と伝えながらギュッと抱きしめました。
経管栄養は2歳の誕生日まで、1年半くらい続きました。
本当は育休後、看護師の仕事に復帰するつもりでした。でも、経管栄養をしてくれる保育園が地元になかったので、私は退職するしかありませんでした」(昌代さん)
経管栄養を卒業したあとも、病気の影響で明愛ちゃんには摂食障害がありました。「食べることには悩みしかなかった」と昌代さんは言います。
「2歳を過ぎても上手に飲みこむことができなくて、大さじ2杯分のペースト食を食べるのに、30分くらいかかっていました。1食を食べ終わるのに、毎回2時間くらいかかっていたと思います。
明愛は2歳を過ぎても歩けなかったこともあり、2歳3カ月から3カ月間、リハビリ施設に母子で泊まり込みで入所。自立歩行のためのリハビリや、食べる練習などを行いました。これがとても効果があったみたいで、2歳9カ月のとき待ちに待った最初の一歩が出たんです!
また同じころ、親子3人でお出かけしたとき、たこ焼きの中身のとろっした部分を、明愛がおいしそうに食べてくれて。
明愛は成長している、日々奇跡が起こっている!って思いました。
今、明愛は12歳、中学1年生です。会話はできませんが、動作や表情で意思表示をできます。短い距離なら歩くこともできます。
明愛の小さな成長の積み重ねが、私を母として強くしてくれたと感じています」(昌代さん)
明愛ちゃんが6歳のとき、妹の蒼依(あおい)ちゃんが生まれます。蒼依ちゃんは「18番部分トリソミー」という染色体異常が原因の難病があることが、生後3カ月のときにわかりました。「どうしてうちにばかり・・・」と昌代さんは思ったそうです。
お話・写真提供/小林昌代さん 取材協力/コルネリア・デランゲ症候群 患者家族会 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
看護師である昌代さんが「教科書で見た記憶もない」という、コルネリア・デランゲ症候群という病気で生まれた明愛ちゃん。娘に治らない病気があることに苦しみ、絶望を感じた昌代さんですが、明愛ちゃんの成長を見守る中で、母として強くなったと言います。
インタビューの2回目は、明愛ちゃんの小学校生活のことや、二女の蒼依ちゃんの病気のことなどについて聞きます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
小林昌代さん(こばやしまさよ)
PROFILE
大学病院、企業診療所で看護師として勤務していたが、医療的ケアが必要な長女が保育園に入れず退職。その後も社会とのつながりを求めてパートタイムで勤務。医療的ケア児等コーディネーターの資格を取得。「HappinessforYou おでかけが楽しくなりますように♡」をコンセプトに、specialneedssupportで障害者の存在理解のための啓発活動を行い、非営利団体の設立も目指している。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年7月の情報であり、現在と異なる場合があります。