信じられない!丈夫な私が流産…看護師さんの言葉に涙、優しく支えてくれた夫に感謝
女の子と男の子の2人の子の母で、ママライターのフナミです。1人目の出産は26歳の時ですが、女性にとっての一大事業と言われる出産については、今も鮮明に覚えていて決して忘れることができません。“流産”も今となっては、私にとって懐かしい大切な思い出となっています。
体の中の小さな命に、こみ上げてきた“愛しさ”
24歳になった年の12月に10歳上の夫と結婚。音楽講師をしながら、実家から徒歩10分の新居で平穏な毎日を過ごしていました。7月末に、毎朝測っていた基礎体温と生理の遅れから、「もしかして?」と軽い気持ちで母と一緒に近くの産婦人科へ行きました。
尿検査でプラスの反応が出て、内診の超音波を見て「ここで赤ちゃんが育っています。今妊娠6週目で予定日は3月の始めですよ」と告げられました。結婚当時、漠然と卯年の3月生まれの赤ちゃんが欲しいと願っていた私の夢が、かなうことになりました。
「今が大切だから無理をしないように! 」と、生活の注意を受けました。私1人+小さな1人の体を大切に愛おしみながら、新たな母としての小さな1歩を感じました。3月生まれの予定なので、「モモちゃん」とおなかの赤ちゃんに名付けて呼びかけていました。
丈夫な私が“流産”なんて、信じられない気持ち…
妊娠によって、今までより世界が目まぐるしく感じました。「私1人ではない、おなかに命が育っている!」と責任も感じました。つわりもなく食欲旺盛で、「私は丈夫だわ!」と実感しました。2度目の健診で夫と病院へ行って、超音波でわが子の姿を見て、親としての実感がわいてきました。
しかし、翌朝軽い出血がありました。「昨日の内診のせいでは?」位に考えて、仕事へ行きました。夕方帰宅しても、まだ生理のような出血が続くのは、さすがに気になり、母に電話をしました。母が慌てて自宅にきてくれて、そのまま来た車で病院へ行き、内診すると「流産の疑いがある!」とのことでした。
「そんな馬鹿な!この丈夫な私が、流産なんて!」と信じられない気持ちで一杯でした。超音波で赤ちゃんの姿が見えないのは、妊娠していても中味は空っぽで、赤ちゃんは育っていないのだそうです。「卵に問題があって、自然と消えていったのですよ」という看護師さんの言葉に涙が出てきました。
「つわりで気持ちが悪くなかったし、運命だったのかな?」と、段々と気持ちは落ち着いてきました。翌朝再検査をして、赤ちゃんが見えなかったら手術ということになり、その日は帰宅しました。
人生初の手術後、夫の顔を見て“安堵感”に包まれた
翌朝の再検査でも赤ちゃんの姿は見えず、そのまま子宮を伸ばす物を入れて麻酔を打たれ、手術は行われました。麻酔が切れて眠りから覚めた時は、まだどこか体が宙を浮いたような感じで、おなかをなでてみてもあまり変化はわかりませんでした。
最初は母が一緒に付き添ってくれましたが、目が覚めたら雑誌をおいて、「終わったら連絡してね」とさっさと帰って行ってしまいました。母も家で退院後の私を迎える準備があったのだと思います。今までは病気をすると母の存在が大きかったのに、この時は不思議とつらいとか寂しいという気持ちはありませんでした。
午後になって少しおなかが痛くなってきた時に、夫が忙しい中、早退をして、「軽い入院だから」と小さな花籠を持って来てくれました。思いがけないことに何だかホッとして、とても嬉しい気持ちになりました。夫は、母よりも誰よりもわがままが言えて、私のありのままを出して甘えられる人で、「夫婦ってこんなものかな?」と初めて実感した瞬間かもしれません。
“流産”は思いがけずあっという間のことで悲しく、しばらくは夜になると思い出して、夫の前では泣くことはありました。しかし、私の中で夫がこんなに大きな存在になっていると発見することができたのは、貴重な経験でした。
日帰り入院から帰る時に、「子宮を休めるためにも、半年間は妊娠しないように」と先生から注意を受けました。それで、年内は夫と2人でいろいろと楽しむことに。年が明けて「そろそろ妊娠しても大丈夫かな?」と思った矢先に、長女を妊娠することができ、しかも卯年の9月に生まれてきてくれました。その後、不思議と流産した「モモちゃん」のことは、懐かしい思い出として冷静に感じられるようになりました。
[フナミ*プロフィール]
女の子と男の子の子ども2人を育てました。趣味は観劇。自分の頃と比べても、マタニティー用品やベビー用品の進化ぶりに、とても驚いています。子どもたちがそれぞれ子どもを持つことになったら、それを通して再び自分の妊娠・出産そして育児を振り返るきっかけになるので、今から楽しみです。
※この記事は個人の体験記です。記事に掲載の画像はイメージです。