何度もの手術、好奇の眼差しを乗り越え「口唇口蓋裂じゃなかったら私じゃない」にたどり着くまで【体験談】
自身も重度の※口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)で生まれた小林栄美香さん(28歳)。口唇口蓋裂をもつ当事者同士やその家族の交流、口唇口蓋裂についての理解を深めるためにNPO法人「笑みだち会」を立ち上げ、その代表として活動しています。栄美香さんは、合併症の治療も合わせると、これまでに20回超もの手術を乗り越えてきたそうです。
「大人になって、口唇口蓋裂の自分に対する自己肯定感は上がってきています。“産まれてきてもよかったな”と思えるようになってきました」と栄美香さん。
これまでどのように病気と向き合い、家族や周囲の人とどんな関係性を持ってきたのか、聞きました。
~特集「たまひよ 家族を考える」では、妊娠・育児をとりまくさまざまな事象を、できるだけわかりやすくお届けし、少しでも子育てしやすい社会になるようなヒントを探したいと考えています~
※唇・歯ぐき・上あご・のどちんこ等が裂けた状態で生まれる先天性の病気を指します。タイプや症状は人によってさまざまあり、口唇口蓋裂で生まれてくる確率は500~600人に1人。決して珍しい病気ではありません。(NPO法人笑みだち会ホームページ参照)
病気のことは隠さず、前向きに考えるのがわが家の日常
「“ほかの人と違うな”と自覚したのは3歳ごろだったと思います。保育園に行くと、指を差されたり、スーパーのお菓子売り場で同い年くらいの子に笑われたり…。小さいころから好奇な眼差しを向けられ、イヤな気持ちになるなと思っていました。
母にそのことを言ったかもしれないけど、それが当たり前の日常だったので、泣いた記憶はないんです」(栄美香さん)
栄美香さんもご家族も、病気のことを前向きに考え、家族間だけでなく、周囲の人にも隠さずに過ごしたと言います。
「小さいころから、受診のたびに“今日は●●を治すから頑張ろうね”などと、母から病院に行く理由を教えてもらってたので、“私は病気なんだな”とわかっていました。病名を知ったのは、小学校低学年のころでしたね。
小学校に上がると、毎月1~2回のペースで受診していた栄美香さん。そのたびに学校を休んだそうですが、クラスの仲のいい友人には、欠席する理由をきちんと話し、病気のことを隠さなかったと話します。
「赤ちゃんのころから治している病気があって、明日は病院に行く日だからお休みするね」と伝えていました。友だちも受け入れてくれてる感じでした」(栄美香さん)
両親の”大丈夫、大丈夫!”という声かけはうれしかった!
通院の日は、あえて学校を休ませてくれて、受診後の楽しみをつくってくれたというご両親。入院となると、小学生まではお母さんが付き添い入院してくれたそうです。
「病院帰りにカフェに寄ったり、書店で本を選んだり…。私が通院をイヤなことだと思わないように、受診後の楽しみをつくってくれました。そして、母も一緒に病院帰りの寄り道を楽しんでて。
『病院に行くことは、子どもに負担をかけているようで申し訳ない気持ちになる』という親御さんの話をよく聞くんですが、うちの場合は、“手術したら今よりもっとかわいくなって、食べやすくなるね”などと希望を持たせてくれました。
そして、“大丈夫、大丈夫!”と常に声かけしてくれて。そんな両親の様子は、安心感につながりました。どっしりと構えてくれていたのがうれしかったですね。
私が大きくなって入院が決まると、両親は毎日のようにお見舞いに来てくれて、それが心の支えになりました。
両親は両親で、私の入院をいつも不安に思っていたみたいで、お見舞いに通うことが心の安定につながっていたようです。
いつもとは違う日常を、親子であえて楽しもうと、一緒に本を読んだり、プレイルームで遊んだり。楽しい思い出がたくさんあります」(栄美香さん)
入院中、栄美香さんが辛そうにしていると、何をしたら喜ぶか、何を求めているのかをいちばんに考え、ご両親はサポートしてくれたそうです。
「弱音を吐くのが苦手でした…」ストレスで体に異変が
小学校の同じクラスの友人は、栄美香さんの病気を理解し受け入れていた一方、病気のことを知らない上級生や下級生などからは、学校の運動場や廊下、公園などでからかわれたことも。
「母は、普段から先生と連絡ノートなどで密にコミュニケーションをとって、学校生活をサポートしてくれました。先生もこまめに面談時間をつくってくれて。先生と母が連携してサポートしてくれたのはありがたかったなと思います」(栄美香さん)
そんな栄美香さんの体に小学校中学年のとき、ある異変が起こります。
「“栄美香ちゃん、500円玉くらいの円形脱毛症になってるの知ってはりますか?”って、先生から直接母は聞かれたそうです。
母はびっくりして“何があったの?”って。
“上級生や下級生にからかわれたり、笑われてイヤな思いをした”と答えると、先生も母も、円形脱毛症の原因をそこで初めて知ったんです」(栄美香さん)
栄美香さんのことを大切に想い、前向きにサポートしてきたご両親。そんなご両親が、栄美香さんの異変に気づけなかったことをこう振り返ります。
「“我慢して踏ん張らないといけない”というのが私のベースにあるんです。だから、弱音を吐くということをマイナスに捉えていましたので、両親に弱音を吐くのが苦手でした。
さらに、自分1人で抱え込んでしまうタイプで、両親に弱音を吐いたり、泣いたりしたのは人生で片手に数える程度なんです。今思うと、円形脱毛症になったのもいろんな感情をため込んでしまったせいだったのかな…と思います」(栄美香さん)
栄美香さんは9歳のとき、上あごを前に出す手術をします。このときも、恐怖感でいっぱいなのに、目の前にいるご両親にその気持ちを出せなかったと話します。
「手術室に行く前、怖くて怖くてベッドでガチガチに緊張して。一人で涙目になってぶるぶる震えていたんです。母がそばにいるのに、どうしても泣けないんです。
そんな様子の私に母は“怖かったら泣いていいねんで。痛かったら泣いていいよ。我慢せんでいいよ“って。
そう言われ、堰を切ったように泣いたことがありました」(栄美香さん)
友だちとの出会いも大きな力に!
中学や高校で出会った友人も、栄美香さんに大きな変化をもたらし、自分を受け入れるきっかけになります。
「友だちと出逢うまでは、私自身が誰よりも口唇口蓋裂の自分に偏見を持っていました。でも中学や高校でできた友だちは、私よりも先に口唇口蓋裂の私を受け入れてくれたんです。
治療で学校を休まなくちゃいけないことを打ち明けたことがあって。どんなリアクションをされるか不安だったんですが、友だちは”めちゃめちゃ頑張ってるなぁ。退院したら遊ぼ!”みたいな感じで応援してくれて。あれは本当にうれしかったです。
友だちが受け入れてくれているのだから、私が自分を受け入れなかったらあかんわと思ったんです。それが、自分を受け入れようと思うきっかけになりました。友だちの存在にすごく救われました。
とくに中学で出逢った友だちは、いちばん信頼を寄せる大切な存在で。今でも毎日連絡するほどの仲なんです。彼氏にもそんなに連絡することってないですよね(笑)」(栄美香さん)
苦しい想いもしたけど、口唇口蓋裂に教わることもいっぱい
大人になってからは、自身の病気をどう捉えるようになったのでしょう?
「年々、口唇口蓋裂の自分に対する自己肯定感は上がってきています。でも、悩む部分もあって…。今は、“産まれてきてもよかったな”と思えるようになってきました。
“なぜ私は口唇口蓋裂で生まれたんだろう”と、産まれた意味に対して責めたこともありました。でも、この病気の啓発活動をするようになって、私が口唇口蓋裂で生まれた意味はそこにあるのかな、と捉えることができるようになりました。
両親は私の名前を“まみちゃん”にするつもりだったんですが、口唇口蓋裂で産まれた私の顔を見て“栄美香”にしたと聞きました。だから、“口唇口蓋裂じゃなかったら、私じゃないな”って思っているんですよ」
栄美香さんは20歳のとき、それまで経験した手術の中で、最もつらく最も臨んでよかったと話す顎の手術を受け、治療は一旦落ち着きます。
それから1年後、口唇口蓋裂の啓発活動の1つとして、自身の体験談や病気に関する質問や相談に応じるブログを開設。そのブログが瞬く間に反響を呼び、NPO法人設立へと前進していきます。
その後の様子は、後編に続きます。
取材・文/茶畑美治子
取材協力・写真提供/非営利活動法人笑みだち会
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