産後、縁を切るところまで思いつめた実母の干渉、的外れな思い込みとは
主婦ライターの【ゆきまり】です。私は第1子である息子を37歳で、第2子である娘を39歳で出産しました。子どもを授かったことが奇跡のようで、両親も義両親も手放しで喜んでくれました。
実家の干渉なんてなかった、第1子の平和な時代
息子が生まれて退院してからは、実母と義母が交代でお手伝いに来てくれました。狭い家のひとつ屋根の下で気疲れもありましたが、小さな息子を眺めているだけですぐに忘れ、笑顔に変えることができました。
このころは、実母も義母も、今と昔の子育ての違いを楽しみ、驚くことはあっても干渉してくることはありませんでした。親世代では、お風呂上がりに湯冷ましを飲ませたようですが、今では母乳が主流などといったことも理解してくれました。
産前に送られてきた布オムツの山も、結局は紙オムツの方が便利と使いませんでした。後に、実の親からの干渉で、まさか自分が悩むことになるとは、第一子を出産した頃は夢にも思っていませんでした。
きっかけは“紙オムツ”!実母の思い込みに泣いた第2子産後
ところが、2年後娘が生まれると状況が一転します。実母がまたお手伝いに来てくれたのですが、2歳に届かない息子と新生児の娘のお世話は、想像以上に大変でした。その年は猛暑日が多く、北国育ちの実母が慣れない暑さで疲れをさらにためていくのがわかりました。
そんなある日、夫が娘の紙オムツを取り換えようとして、まだ少ししか濡れていなかったので、また履かせたことがありました。正直私もよくしたことですが、実母は「オムツをケチるほど(夫は)家にお金を入れてくれないの?」と私に陰口を言ってきたのです。
あまりにも的外れな干渉で笑って否定しましたが、実母の思いこみは止まらず、夫が生活費を入れない非情な人であると決めつけてしまったのです。「嫁に出さなきゃよかった」「孫は連れて帰る」と言い出し、私の話を聞く耳を持ってくれません。挙句の果てに義母に抗議の電話までしたのです。
夫にも義両親にも申し訳なく、産後の体にも心にもひどく応えました。夜も眠れず、出口のないトンネルの中に放り出されたようでした。
「私が家族を守り抜く」と決意した冷戦時代
でも、暗いトンネルは自力で抜け出すしかありません。夫への誤解は、私が晴らすしかないのです。
実母への不信感でいっぱいのまま帰省した翌年、私はついに爆発しました。相変わらず自分勝手な干渉をする実母に、「もういい加減にして!お義母さんに電話までして!夫は優しいし、子ども思いだし、私は十分に幸せなの!」と、涙を流して訴えました。
頑固な実母とぶつかるのが面倒で本音を言い合ってこなかったツケが、一気に噴出したのです。それまで実母に口答えをしたことはなかったので、私のそんな姿を見て実母は目を丸くして驚き、目に涙をためていました。
結局、実母は「私より夫の味方なのね」と、最後まで謝ることはありませんでしたが、それ以降私たちに干渉しなくなりました。これを機に、以前よりも私たちの立場を理解し、思いやってくれているように感じます。
このつらい時期、私にできることで夫を守り、夫も私を支えてくれました。つらくて暗いトンネルの先には、自分の親に頼らず甘えを捨てて、何が何でも家族を守り抜く、少し強くなれた自分がいたのです。
この冷戦時代のことは、思い返すたびに胸が痛み、忘れることはできません。実の親子であっても、通じ合えないことがあるのだと諦めています。ただ、行きすぎた実母の干渉も、私を心配してのことだったと思うと、責め切れない複雑な気持ちになります。私も娘に同じようなことをしてしまわないよう、ぶつかることはあっても本音を言い合い、尊敬し合える関係でありたいと思っています。こう思わせてくれたことについては、実母に感謝しています。
[ゆきまり*プロフィール]
食べること、ものを作ること、文章を書くことが大好きな主婦ライターです。現在、1男1女の育児中です。子育て中の日々の、小さくても愛おしい感動や思いを、余韻の残る文章で伝えていきたいです。
※この記事は個人の体験記です。記事に掲載の画像はイメージです。