「この先ずっとは続かないかもしれない」かけがえのない娘の命。だから今を大切に、できるだけの愛を与えたい、母の思い【体験談・医師監修】
和歌山県新宮市に暮らす加藤亜里沙さん(パート勤務・38歳)。夫の栄作さん(会社員・38歳)、希乃羽(ののは)ちゃん(12歳)、希帆乃(きほの)ちゃん(9歳)の4人家族です。二女の希帆乃ちゃんは5万人に1人といわれる染色体異常の難病、4pー(マイナス)症候群をもって生まれ、入退院を繰り返す生活を送っていました。
希帆乃ちゃんが4歳を過ぎて、加藤さん一家は和歌山県新宮市に引っ越すことになります。希帆乃ちゃんの成長と医療的ケア児を育てる家族の暮らしについて、亜里沙さんに話を聞きました。全3回のインタビューの最終回です。
4歳までに4回の手術を受け、入退院を繰り返していた
2014年4月に生まれた希帆乃ちゃん。亜里沙さんの妊娠中から、染色体異常の病気である4pー(マイナス)症候群と診断され、口唇口蓋裂や低形成腎、低体重などの症状をもって生まれ、さらに心房中隔欠損症や尿管逆流症などもあり、それらの手術や、栄養をとることが難しかったために胃ろうの手術など、合計で4回ほどの手術を受けてきました。
「希帆乃は、出産前からお世話になっていた国立成育医療研究センター(以下、成育医療研究センター)に入退院を繰り返す生活をしていました。しかし、希帆乃が4歳をすぎた夏、夫が実家の家業を継ぐために和歌山県新宮市へ引っ越すことに。
妊娠中から私たち親子にずっとかかわってくれた成育医療研究センターから離れることは私にとって不安しかありませんでした。希帆乃の病気は5万人に1人という難病で、症状もそれぞれ違うので医学書に書いてあるとおりにはなりません。成育医療研究センターの先生方は、希帆乃の症状に合わせて、希帆乃だけの対応をしてくれていました。主治医の中村先生は希帆乃を患者としてだけでなく、1人の人として見てくれていました。先生の温かさに、希帆乃も私たち家族も中村先生を希帆乃のおじいちゃんのような、家族のような大切な存在と感じています。
私たちにとって成育医療研究センターは、希帆乃の命をつなげるために病気を見てもらう場所であり、同時に私自身が安心できる場所でもありました。そんな場所から離れる心細さもあったし、これまでのように十分な医療を受けられるだろうか・・・と、不安でたまりませんでした」(亜里沙さん)
家族が東京と和歌山で分かれて生活することも考え、亜里沙さんは医師たちにも相談しました。
「夫は、私と娘2人が東京で、夫は新宮で、または私と希帆乃が東京で、長女と夫は新宮で、など別々に暮らすことも提案してくれました。そのことを主治医の中村先生や医療者スタッフに相談したんです。
すると先生たちは『子どもが心身ともに健康でいるためにも、家族は一緒に暮らしたほうが絶対にいい。心配なく暮らせるためにできるだけのサポートをする』と、不安がる私に新宮への転居を説得してくれました。そして中村先生は三重大学附属病院の先生を紹介してくれました。そこからさらに引っ越し先近くの新宮市立医療センターを紹介してくれて、引っ越し先でも希帆乃が医療を受けられる体制が整いました」(亜里沙さん)
引っ越し先では医療的ケア児の姿を見かけなかった。そして感じた課題
2018年、希帆乃ちゃんが4歳の夏、加藤さん一家は和歌山県新宮市へ引っ越しました。暮らし始めてまもなく、亜里沙さんは街で希帆乃ちゃんのような医療的ケア児を見かけないことに気がつきます。
「私は横浜で暮らしているとき、長女の幼稚園の送り迎えや、スーパーへのお買い物にも希帆乃と一緒に出かけていました。でも、新宮では出かけた先で医療的ケア児を見かけることはほとんどなかったため、私も希帆乃を連れての外出のしにくさを感じていました。希帆乃は24時間の胃ろうへの栄養剤の持続注入があるため、外出時には栄養ポンプを医療バギーに乗せて移動する必要があります。そういった希帆乃の姿が見慣れないのか、すれ違う人に希帆乃をジロジロ見られたことも幾度となくありました。
必ずこの地域にも医療的ケア児はいるはず・・・そう思って、地域の保健師さんなどに聞いてみたところ、医療的ケア児や重症心身障害児はいるけれど、あまり外出していない、という現状があるようでした。医療的ケア児についての地域の理解が乏しく、外に連れ出すと好奇な目で見られてしまったり、心ない言葉をかけられたり、そもそも支援が少ないために外に連れ出すことが難しい現状があるようでした。
私も実際に買い物をしているときに、一緒にいる希帆乃を見て『かわいそうに』などと心ない言葉をかけられたこともありました」(亜里沙さん)
亜里沙さんは「私たちは何も悪いことをしていないのに、なぜ隠れるように暮らしていかなければならないのか」とモヤモヤした気持ちを抱えていました。
「やがて希帆乃の入学を検討する時期になりました。学校の見学会に参加したときに、初めてこの地域の医療的ケア児とその家族と知り合うことができました。6歳になった希帆乃は特別支援学校の肢体不自由学級に入学することになり、その学校の保護者会などで地域の医療的ケア児のお母さんたちとのつながりができました。ほかの保護者と話をしてみると、多くのお母さんたちは自分自身の人生というよりは、『子どものために生きる』ことを重視しているように感じました。
私は希帆乃を夫に預けて美容院やランチに出かけていますが、そういった息抜きがなかなかできない人もいました。医療的ケアが必要な子どもを最優先するのはもちろん当然なことだと思います。でも、お母さんたちも、もっと自分自身を大切にしてもいいんじゃないかな、と。そのために私に何かできることがないか、考えるようになりました」(亜里沙さん)
医療的ケア児とその家族が暮らしやすい街になってほしい
亜里沙さんは新宮市で生活をする中で、医療的ケア児や重症心身障害児のための放課後デイサービスなどが非常に少なく、定員になれば入所できないような状況を知りました。症状が重い子はママがつきっきりで自宅でケアしている家庭も少なくないそうです。
医療的ケア児や重症心身障害児とその家族が家に閉じこもってしまい、外出したり生きにくさを感じたりする状況をなんとかできないか、と亜里沙さんは考えました。
「医療的ケア児の家族への支援が必要であることはもちろんですが、呼吸器がついていたり、意思表示が難しい子の場合、その子の意見をくみ取ることができるのは保護者です。子どもの権利を守るためにも、親自身が心身ともに健康でいる必要があります。支援を受けたくてもなかなか必要な支援が受けられない家庭があることの問題を、なんとかしたいと感じました。
私自身も、希帆乃のお母さんになってから、心のどこかで自分は希帆乃のために生きなきゃいけないと思っていたし、希帆乃がいるから自分のやりたいことにストップをかけていた部分がたくさんありました。だけど、ほかの医療的ケア児やその家族の状況を知り、みんながもっと暮らしやすい街にしたいと強く思うようになりました」(亜里沙さん)
そこで亜里沙さんは、医療的ケア児や重症心身障害害児とその家族が必要とする支援につなげるためのNPO法人を立ち上げる決心をします。
「夫や、希帆乃にこれまでかかわってくれた方々の応援もあって2023年7月に、同じ想いを持った仲間たちとNPO法人『near』を立ち上げました。『near』では、医療的ケア児、重症心身障害児とその家族が交流しつながり合う機会を作ったり、支援活動や普及啓発活動によって地域全体が助け合いの場となるような活動をしていきたいと思っています」(亜里沙さん)
命がある限り、たくさんの愛情を与えたい
現在、希帆乃ちゃんは週5回、9時半〜14時半の時間を支援学校に通っています。週に2回の放課後デイサービスにも通っていて、その間に亜里沙さんは夫の会社でパートタイムの仕事をしています。
「希帆乃は月2回ほどの通院と、平日の訪問看護、週に2〜3回の訪問リハビリがあります。自宅では1日3回の導尿と浣腸、胃ろうの24時間注入のチェック、血糖値のモニタリングをしています。毎日忙しいですが、希帆乃と過ごす日常がとても幸せです。
希帆乃は生まれたときから腎臓がうまく働かず、今は腎不全が進行している状況です。希帆乃が生きていくためには腎臓移植が必要ですが、染色体異常があるために、私や夫から腎臓移植したとしてもうまく働かない可能性があります。移植によって私たちが万が一体調を崩してしまえば、希帆乃の元気を保ってあげることもできなくなってしまいます。そう考え、私たち家族は腎臓移植はせず、希帆乃が自然に生きる状況に任せようと思っています。
私たちは、希帆乃の命がこの先ずっとは続かないだろうということは覚悟しています。そのときは遠い未来じゃないかもしれない、ということは医師からも説明されています。
だから希帆乃の命がある限り、私たち家族や主治医の先生たち、リハビリの先生たち、学校の先生たちなど、希帆乃とかかわる人たちからのたくさんの愛情をもらえる場を作ってあげたいです。希帆乃自身に『この家に生まれてよかったな』と思ってほしい。そのために、希帆乃にとってどんな治療がいいのかを考えながら、毎日の希帆乃との時間を大切に暮らしています」(亜里沙さん)
【中村先生から】子どもの生きる力と家族の人としての力を信じ、伴走してくれる多く人がいる地域を作ること
日々のご家族の苦労を見ているものとして、医療者としての葛藤はありましたが、医療へのアクセスは難しくなるが、暖かい人の輪のある生活を送ることのできる新宮への転居をおすすめしました。新宮でも医療が受けやすい環境を整える中で多くの地域の方々の力を貸りることができるようになりましたが、転居後も、定期的な成育医療研究センターへの入院を行っていました。新型コロナの流行で、東京に来ることが難しくなり、このこともご家族が、地域のみなさんの力をお借りして生活していく決断を最終的にされたきっかけとなったと思います。地域で多く人とつながる中で、同じような環境で困っておられる子どもと、そのご家族に出会われ、この方々にも寄り添ってくださる地域を作ることに支援の輪を広げようとされていることに敬意を表します。
子どもは親に大きな力を与えることができる存在であることを改めて感じました。また、希帆乃ちゃんの主治医をさせていただけたことに感謝申し上げます。加藤家にさらに明るい未来があらんことを願って。
お話・写真提供/加藤亜里沙さん 撮影/こまち(クッポグラフィー) 監修/中村知夫先生 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
今、加藤さんファミリーはNPO法人の立ち上げによって知り合った医療的ケア児の家族たちと、みんなでキャンプに行く計画をしているのだとか。亜里沙さんは「自分の家族だけだとできないことも、みんなで協力し合えば実現できそうだと、nearでつながった家族のみなさんが楽しみにしてくれています」と話してくれました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年9月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
中村知夫先生(なかむらともお)
PROFILE
国立成育医療研究センター 総合診療部 在宅診療科医長、医療連携・患者支援センタ-在宅医療支援室室長。
1985年兵庫医科大学医学部卒業。兵庫医科大学小児科、大阪府立母子総合医療センター、ロンドン・カナダでの研究所勤務などを経て、国立成育医療研究センター周産期診療部新生児科医長ののち、現職。小児科・周産期(新生児)専門医、新生児蘇生法「専門」コースインストラクター。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年9月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。